本と音楽の未来を考える

いま、思うこと 第1〜10回 of 島燈社(TOTOSHA)

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

工藤茂(くどう・しげる)/1952年秋田県生まれ。フリーランス編集者。15歳より50歳ごろまで、山登りに親しむ。ときおりインターネットサイト「三好まき子の山の文庫」に執筆しているが、このところサボり気味。

第1回:反原発メモ

 1980年ごろだったと思うが、正確には1978年か79年かもしれない。東京大学駒場校舎(教養学部)で夜間に行われていた宇井純の「公害原論」の講義に通い始めた。自主講座「公害原論」が始まったのは1970年、本郷の工学部校舎だった。その後、講座は駒場へと移って1977年から1986年まで続いたので、ぼくはずいぶん遅い受講生ということになる。
 当時宇井純は工学部の助手で、教授の許可なしには学生に講義をできない立場だった。しかし、市民を相手の講義であればそういうわけでもないのだが、夜間、大学校舎に一般市民を集めて講義を行うところに問題があった。前例のないことで容易に許可が下りるとも思えなかったらしいが、総長加藤一郎の判断で許されたという。
「公害問題は科学技術だけの問題では収まらない。政治、経済、司法にまでおよぶ」という宇井の主張どおり、講義の内容は広範囲にわたるものだった。おかげで、本当に世間知らずのぼくの眼は社会へと開かせてもらった。
 講義のなかでは原子力発電についても取り上げられ、その未完成な技術、危険性、使用済み核燃料の問題について詳しく解説してくれた。そして、早くから原発について警鐘を鳴らし続けている信頼できる専門家として、高木仁三郎と水戸巌をあげた。
 高木仁三郎らの原子力資料情報室は1977年に立ち上げられていて、「公害原論」の教室にも情報室の人々が毎回やって来てさまざまなチラシやパンフレットを配っていた。ぼくはそのころにもらった原発の危険性を解説した小さな20ページ程度の冊子を3種類保管していたのだが、何度か引っ越しているうちに処分してしまったらしい。
 2011年3月12日、大地震の翌日、Ustreamで中継されていた原子力資料情報室の記者会見に、仕事そっちのけでかじりついていたが、まさにその中継の最中に福島第一原発1号機が爆発したという知らせが飛び込んできた。それからは原子力資料情報室の中継を見るのが日課となった。これらはいまでもアーカイブ映像(You Tube)として、原子力資料情報室のHPで見ることが可能なようだ。
 一方、真っ先に現場へ急行したのがフォトジャーナリストの広河隆一、豊田直巳らのグループで、13日には福島第一原発から3キロ地点まで近づいたが、1,000マイクロシーベルトまで計測可能なガイガーカウンターは瞬時に振り切れた。その模様はすぐ13日の原子力資料情報室の記者会見で紹介され、ほどなく動画サイトにも載せられた。

 原発関連のTV番組などでは、高木仁三郎についてはよく語られるが、水戸巌について触れられることはない。両氏とも東京大学原子核実験所に所属していて、宇井とは若干畑は違えども同じ工学部、ほぼ同年代で親しかったという。全共闘の嵐をへて、高木仁三郎は都立大学へ、水戸巌はしばし時をおいて芝浦工大へ、宇井は東大に残り市民を相手に「公害原論」を立ち上げた。その後、宇井は沖縄大学へ教授として招かれることになったため、1986年早々に閉講させ、4月からは沖縄へと活動拠点を移した。ぼくはそれに最後まで付き合った(最終講義は1986年2月5日、本郷の校舎だったように記憶している)。
 宇井が東京を去った年(1986年)の暮れ、新聞で山の遭難が大きく報じられた。そこに水戸巌の名前があることに気づき驚いた。二人の息子たちと剣岳に向かい、北方稜線で遭難したという。冬の剣は容易ではない。あの水戸巌が山男とは知らなかったので確認を急いだが、詳しく記事を読むうちに同一人物と確信した。
 いまはインターネットのおかげで水戸巌の活動についての情報が入手可能になった。救援連絡センター設立の中心となったのも水戸のようだし、第一原発事故以降メディアに登場する機会が極端に増えた京都大学の小出裕章は、入学した東北大学原子核工学科の講義に絶望して、東京大学にいた水戸巌を訪ねて教えを請うたという。
 2012年6月20日の「朝日新聞」のweb版で「反原発の遺志、今こそ声に 運動草分け故・水戸教授の妻」という記事を偶然見つけた。
〈以下、引用〉
反原発の遺志、今こそ声に 運動草分け故・水戸教授の妻
放射線専門家として、日本の反原発市民運動を引っ張った大学教授が25年前、雪の北アルプスで53歳で遭難死した。残された妻は、東日本大震災を機に長年の沈黙を破った。夫の遺志を継ぎ「反原発」を叫び、「科学者よ、声を上げよ」と訴える。
 17日、福井市。大飯原発再稼働抗議デモの列に水戸喜世子さん(76)はいた。「再稼働反対」のはちまきを巻き、自宅のある大阪府高槻市から駆けつけた。
 夫は、芝浦工業大教授だった水戸巌さん。1970年代初めから、反原発運動の草分けを担った放射線物理学者だ。

■圧力にも毅然
 お茶の水女子大で物理を専攻する学生だった頃、物理学の勉強会で東大生の巌さんと出会い、60年に結婚した。「私のひとめぼれよ」と振り返る。
 全国の原発を訪ね、付近で落ち葉を採取して放射線データを集めた夫。正体不明の嫌がらせは日常茶飯事だった。切断された指が送られたり、「命があると思うな」と電話がかかったり。それでも毅然(きぜん)としていた。3人の子の安全のため、喜世子さんは関西に移り住んだ。
 東大の卒業証書より冬山登山講習の修了証を大事にするほど夫は山を愛した。父の背中を追いかけて物理の世界に進んだ京都大院生の共生(ともお)さん、大阪大生の徹(てつ)さん(いずれも24)の双子兄弟とともに、幾つもの頂を目指した。86年末、「これが最後」と北アルプス・剣岳を目指し、消息を絶つ。警察が打ち切った捜索を仲間が続け、翌夏3人の遺体は順次見つかった。
 巌さんは、日本原子力発電東海第二発電所(茨城県)の原子炉設置許可処分取り消しを求め、73年に住民が提訴した訴訟では住民側証人として「事故が起きたら被害は東京に及ぶ」と訴えた。チェルノブイリ原発事故(86年)後の集会では「原発事故は長期間身体に悪影響を残す」と声を荒らげた。
 訴えをよそに、日本は原発大国への道を突き進む。そして、東日本大震災。巌さんの郷里、福島県新地町も被災した。
 「水戸さんが生きていたら、嘆かれたろう」。「子どもたちを放射能から守る全国小児科医ネットワーク」の山田真医師は講演でそう悔やんだ。小出裕章・京都大原子炉実験所助教も、「原子力の正体を教えてくれた人」と評す。

■26年経ち投稿
 チェルノブイリ直後、山で命を落とす半年前の86年6月10日付朝日新聞「声」欄は巌さんの意見を掲載している。「こんな危険を目のあたりに見ながら、『引き返せない』ほど、人類はおろかなのであろうか」
 26年たった今年5月1日付の同欄には喜世子さんの名があった。「政治家は科学者の声に耳を傾けよ。科学者には、その職責がどれほど重い社会的責任を伴うかを自覚してほしい」
 昨年3月11日を境に閉じていた心のふたが外れた。「おまけの人生、彼らが生きていたらするであろうことをする」。敦賀原発直下に活断層がある可能性を報じた記事を読み、投稿を決意。遺影に語りかけ、涙があふれた。「あなた、黙ってないで早く出てきてよ」
 17日のデモには全国から2200人が参加した。個人参加の若者の姿が多かったのがうれしかった。「まだ希望はあるかしら」。そう報告すると、写真の夫は「そうだな」と笑っているようにみえた。(宮崎園子)
〈引用終わり〉

 2012年7月20日夜、小雨のなか、ぼくらは何度目かの首相官邸前の反原発抗議行動の帰りだった。永田町の駅に向かって歩くぼくらの目の前に、雨合羽にゴム長姿の70代くらいの小柄な女性がひとり、とぼとぼとうつむき加減で駅へ歩いている姿があった。どういう思いを抱いて、たったひとりで雨の夜の抗議行動に来ているのであろうか。  (2012/08)

[追記]
 この稿の題名は、震災直後の2011年4月20日付で発表された中山千夏「私のための原発メモ」に触発された。「私のための原発メモ」は、いまもネット上でだれでも読むことができるし、申し込めば冊子も送ってもらえるようだ。
 自主講座「公害原論」の経緯については、宇井純『公害自主講座15年』(亜紀書房、1991年〈のち『自主講座「公害原論」の15年』に改題〉)や追悼文集、宇井紀子編『ある公害・環境学者の足取り』(亜紀書房、2008年)に詳しい。
 水戸巌と奥さんについては、「朝日新聞」に続いて、原発事故報道で大活躍した「東京新聞」2012年9月18日付「こちら特報部」欄でも、大きくスペースを割いて紹介された。奥さんは、現在暮らしている大阪の高槻から首相官邸前のデモにもやって来ているという。  (2012/10)
<2012.11.17>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第2回:壊れゆくもの

 2カ月ほど前のこと、新聞で一篇の投書を読んだ。題名は「福島への言葉の暴力」。投稿者は33歳の男性、専門学校生とあり、内容を要約すると次のようになる。

 2011年の東日本大震災のあと、放射能を懸念し、勤めていた福島の会社を辞め1歳との子ども、妻とともに東京に移り住んだ。休日のある日、帝国劇場横で東北物産展が行われていて、ベンチで「そば、いかめし、野菜スープ」の昼食をとった。そばをおかわりしにいって戻ると、妻の様子がおかしい。通りかかったお年寄りの男性が「そのいかめしは放射能にまみれているから、小さな子どもに食べさすんじゃねえ!」と言い放ったという。さらに妻に「どこから来たのか?」と訊ね、「福島から」と答えると、「だめだ、もう終わりだな」と言って去っていったという。投稿者は怒りのあまりその男性を捜したがすでに見当たらなかった。真意を聞いていないので不明な点はあるが、人の心を傷つけるのはやめてほしい。また東北から来ている物産展の人々にも謝罪してほしい。東北の食品に対する偏見を他者に露呈するのをやめてほしい。

 正直のところ困惑してしまったのだが、それぞれの判断なのだからやむを得ない。とはいえ、この投稿者は放射能の不安から福島を逃れ東京へやって来たのである。にもかかわらず、積極的に東北の食品を食べることに矛盾や不安はないのだろうか。1歳の子どもにも、今後妊娠する可能性のある妻にも、もっと配慮が必要とは思わないのだろうか。そして、東京は本当に安全なところなのだろうか……。
 こんなことを思ったのだが、ちょっと乱暴な声をかけたお年寄りが言うように、もう手遅れなのかもしれない。この家族、というよりも日本がである。亡びの始まりなのかもしれない。

 福島第一原発事故の直後、You Tube上に黒沢明のオムニバス作品『夢』(1990年)のうち「赤富士」一篇のみが切り取られて流された。
 この『夢』は公開当時映画館で見ているが、まったく引き込まれるものがなく「何なんだ、これは?」と、おおいに疑問を持ちながら映画館を出た記憶がある。しかしながら、事故直後にネット上で改めて見た「赤富士」には驚愕した。また、『夢』にこんな作品があったことすらすっかり忘れてしまっていたぼく自身にも驚いた。
 改めて見た「赤富士」では、富士山が真っ赤になって爆発しているのである。いや正確ではない。富士山周辺にあるいくつもの原発が連鎖的に爆発を繰り返し、やがて自身も噴火を始め真っ赤になった富士山のふもと、放射線がただようなかを多くの人々があてもなく逃げ惑う姿が描かれていた。当然ながら、原発の爆発事故を体験したばかりの身には切実に迫ってくる映像だった。
 この「赤富士」と福島第一原発事故をからめて論評した記事もweb上にあるので、興味のある方はそちらをお読みいただきたい(http://www.cinematoday.jp/page/N0031643)。

 ついでにまた夢の話である。こちらは福島第一原発事故から半年ほど経ったころに、ぼく自身が見た夢である。
 どうやらぼくはひとり山登りに出かけ、下りにかかっているようだ。明るい尾根道から、よく手入れの行き届いた杉と檜の混交林の細い山道を降りていった。よく足慣らしに出かけた奥武蔵や奥多摩の雰囲気である。しばらく下ると妙なものが眼に入ってきた。おびただしい数の鋼鉄製の大きな円筒形の容器が並べられている。しかもよく見ると放射線マークが描かれているではないか。使用済み核燃料の輸送用のキャスクである。細い山道が走る林のなかに、広範囲にわたってそれらが並べられていた。驚いたぼくは逃げるように山道を下ったが、逃げたところでどうなるものでもなかった。林のなか、いたるところにそれらは並べられているのだ。ふもとの村に辿り着いたのだが、異様な雰囲気は変わらない。ぼくのずっと先を村人が歩いているのが見えるのだが、歩き方が尋常ではなかった。ゆらゆらふらふらと大きく揺れながら歩いているではないか。
 何度かの原発事故をへて放射線まみれとなった日本列島は、すでに世界地図から消えていた。それでも、日本という国があることは世界中の暗黙の了解だった。そこには世界中の使用済み核燃料が運び込まれ、日本は使用済み核燃料置き場として存在しているのだった。すでに日本政府などというものはなく、アメリカの管理下におかれている。住民もいるのだが、みな放射能に侵され、世界各国から運ばれてくる食料を頼りに、使用済み核燃料と米軍事基地の隙間で、亡霊のようになってかろうじて生きているのである。日本はそんな国になっていた。

 つい先日、1月14日の報道では、アメリカのエネルギー省は、2048年までに使用済み核燃料を地下深くに埋設する最終処分場を建設し最終処分を開始すると発表したが、もしや、この最終処分場というのは日本のことではないだろうか。

  壊れたものが もっとも静かに
  壊れていくことをつづけていくようである。
  私はもう世間に対して
  さして意見をもたなくなった
                   (天野忠「破れたガラス」より)
                                       (2013/01)

<2013.1.21>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第3回:おしりの気持ち。

 わずか8ページの薄い冊子をめくっていて「愛しき体内」と題したコラムに目がとまった。「生まれて初めて内視鏡検査を受けた。……」と冒頭にある。同じく内視鏡検査を受けたばかりのぼくにとっては他人事とは思えず、そのまま400字ばかりの文章を読み終えた。もう結構なトシだし、長年酷使した胃腸を検査してみたらと周囲に勧められ内視鏡検査をうけたところ、とくに問題はなかったが、このとき以来、長年の酒や暴食に耐えて黙って我が身を支えてくれた内臓が愛おしく思えるようになったという内容だ。

 さて、昨年の暑い夏のさなか、ぼくも生まれて初めて胃腸の内視鏡検査を受けた。ことの発端は健康診断の折、近所の同年代の医師が血液検査の結果を見てこう言ったのだ。
「赤血球数が少ないし(391)、ヘモグロビン量も少ない(血色色素13.3)。貧血気味だ。ここ何年もこの状態が続いているから、消化器系に出血の疑いがあります。一度、内視鏡検査を受けてみたほうがいいですね」
「体調もいいし自覚症状はなにもないんですが……、やはり受けたほうがいいですか」
「もうトシもトシだし、受けてみたほうがいいですよ。大腸検査といっても、男なんか簡単ですから。紹介状を書きますよ」
 大腸検査が男と女でさして違うとも思えなかったが、精神的負担の度合いだろうかとも思った。このところ「もうトシだし……」という言葉には、いたってヨワいのだ。イヤと思いながらも返す言葉もなく、首を縦に振るしかなかった。紹介状1枚に1,500円と言われ、「ナニぃ?」と思っても「トシもトシ」だから黙って支払うのだった。

 数日後、歩いて15分のところにある総合病院に出かけた。初めて入る病院である。総合受付で「紹介状のない方は2,100円負担いただきます」という張り紙を見て、紹介状をもらってきて少しだけよかったような気分がした。
 消化器内科に案内され、40歳くらいの女医が担当となった。医師は紹介状を見ながらぼくの日常生活をいくつか尋ねてから切り出した。
「胃と大腸の内視鏡検査ということなんですが……」
 さて、言うべきことは言わねばとぼくは踏ん張ったのだ。
「赤血球、ヘモグロビン量が低いといっても、ほんのちょっとじゃないんですか?」
「うーん、でも、紹介状がありますから……」
「だから、本当に検査が必要なほどの数値なんですか? というところをお聞きしたいんですよ」
 医師は、ここで初めて笑った。
「うーん、そうですね。でも内視鏡検査を受けたことがないんですか?」
「……ないですね」
「じゃ、一度くらい受けてみたほうがいいですね」
 このひと言で、ぼくは観念した。
 同意書にサインして、胃の検査は翌日、そして大腸の検査、総合診断など、スケジュールは流れるように決められて、3種類の下剤を持たされて正門を出た。
 この正門を入るときは「内視鏡検査など受ける必要はないはずだ。絶対受けない。頑張るぞ!」という心積もりだったことを思い出した。「こりゃ負けか? いや、そういう問題ではないはずだ」などと、瑣末なことが頭を過ぎった。

 胃の内視鏡検査は前日の女医みずから担当した。内視鏡検査は腕の善し悪しが大きく影響するというが、初めて体験する者に判断がつくことではない。しかしながら、どう贔屓目にみても上手いとは思えなかった。内視鏡を手に振り回す女医が、一瞬金棒を振り回す鬼のように思えた。嗚咽、苦しさに身をこわばらせているうちに、知らず知らずのうちに涙がジワーとにじむのだった。
 1週間後におこなわれた大腸の内視鏡検査は40代半ばの男の医師が担当した。検査着姿で左腕に点滴と血圧計をセットして診察台でまな板の鯉となったものの、なかなか医師は現れない。女性看護師さんが2〜3人動き回っているなかで、左向きで無意識のうちにお尻をいくぶん突き出し気味に横になっているのだが、なかなか恥ずかしい。恥ずかしいから目はうつろにうつむき気味になる。体調が悪そうだと勘違いした看護師さんが「大丈夫ですか?」と、心配そうに声をかけてくる。そんなことが2度ほどあったのだが、「いや、大丈夫です」などと気丈そうに返事をしながら、心のなかでは「早くやってくれ!」などと思っていたりした。
 そんなところに顎髭の医師が現れ、前述のスタイルで初対面の挨拶をかわした。大腸内視鏡は1万回こなしてはじめて一人前らしいが、はたしてこの医師は大丈夫だろうか。
「工藤さん、眠くなったらそのまま眠っていいですから」
 そう言うなり、いきなりぼくの肛門に指を突っ込んだ。麻酔薬か? そこまでは意識があった……が、あとは不覚にも失った……というか、点滴で送り込まれた鎮静剤のせいかなにも覚えていない。ふと気がついたときには一連の作業も終わる寸前だった。ぼくはしっかりモニターを見る心積もりでやって来たはずだが、なにも見ていないことに気づいて「ああーッ」と落胆した。
「大腸は綺麗ですよ。出血しているようなところはありません。もともと、赤血球が少ないといっても大したものじゃありませんから。ただ、なかにいぼ痔がありましたよ」
 あわててモニターに顔を向けると、いぼ痔が大きくアップにされていた。といっても、いぼ痔を見るのは初めてなので、これがいぼ痔ですと言われれば頷くしかないのだが。ぼくは呂律のよく回らない口で尋ねた。
「で、ど、どんな治療を、するんでしょう?」
「外来の医師と相談してください。座薬かなにかで済むようなものです」
 こんな会話をしながら、医師はさっさと内視鏡を片付けはじめた。ぼくは車椅子で別室に移動し、ベッドに横にさせられた。鎮静剤の影響がなくなるまで休むのだそうだ。この大きな部屋にはベッドがたくさん並べられてあり、ぼくのような、ちょっと横になって休む必要がある人ばかりいるようだった。30分ほどして看護師がやってきた。
「ちょっと立って歩いてみて下さい。ふらふらしませんか」
「腹の中が空っぽですから、ふらふらですよ」と答えると笑われた。

 大腸内視鏡検査の体験談はネット上にたくさんあるので、それをご覧いただければよいのだが、ぼくの場合、前夜8時ころから2種類の下剤を、当日朝からは2リットルの下剤を飲み、何度もトイレに通って中のものを出しきった。体重がおよそ2キロ減り、体にまったく力が入らない状態で病院に出かけることになる。胃腸を空っぽにするということ自体は、思っていたほど大変でもなく、やってみれば呆気なくできてしまうのだが、けっして楽しいことではなかった。

 病院から帰ると、ぼくはいぼ痔の治療に通うことを覚悟した。田辺三菱製薬が無料配布している『おしりの気持ち。』という80ページの立派な冊子を送ってもらって痔について勉強した。驚いたことに日本人の3人に1人は痔に罹っているらしいが、自覚症状のない例が多いらしい。さあーっと冊子に目を通すと、ぼくは立派に痔主の気分になっていった。
 大腸検査から10日後、総合診断の結果を聞きに出かけた。というよりも、気持ちの大半はいぼ痔の治療の相談のつもりだった。担当の女医は機嫌がよかった。彼女から意外な事実が告げられた。
 胃も大腸もなにも問題はなかったというのだ。胃に糜爛(びらん)があるが、問題になるようなものではなく、大腸も問題ないという。近所の医師が危惧したような出血箇所もまったくみられず、健康そのものだというのだ。
 ぼくのほうから、恐る恐るいぼ痔の件を切り出してみた。男の医師は「いぼ痔」と言ったが、女医は「いぼ痔」などとは言わない。滑舌よく「内痔核」と言った。ぼくに写真を見せながら、大小2個あるが、自覚症状もまったくないことだし、治療は必要ないという。つまり放っておいてかまわないというのだった。「なにかあったらすぐに来て下さい。データは揃っていますから」とも忘れずにつけ加えた。

「ぜひ、また来年も内視鏡検査にいらして下さい」という言葉に送られて診察室を出たぼくは、再びひどく落胆していた。まるで、痔主から小作人になったような気分だった。机の上の『おしりの気持ち。』はもう手に取られることもなくなり、本棚の納まりどころに困っているようだ。                     
 これが、昨年の暑い夏の思い出である。
                                       (2013/02)
<2013.2.18>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第4回:ミスター・ボージャングル Mr.Bojangles

 昨年の秋だった。ふと見たテレビには高倉健が映っていた。撮影現場の休憩時間だろうか。そばのテーブルのCDプレイヤーからは音楽が流れていた。英語の歌、男の声、ぼくのお馴染みの歌のようだった。
 「この歌が好きなんですよ」
 高倉健はそう言っていた。ぶっきらぼうな物言いだった。耳を澄ましてみたのだが、ぼくが聞き慣れた歌い手とは違うように聞こえた。

  むかしボージャングルという男と出会った。すりきれた靴に白髪頭、ぼろぼろのシャツ、だぶだぶの
  ズボン。彼は犬を連れて南部をどさ回りしていたダンサーだった。文無しで打ちひしがれていたぼく
  に人生を語り、優雅なステップで踊ってくれた。あるとき彼は涙ながらに話してくれた。犬との長か
  った旅暮らしを。その愛犬も亡くなって20年も過ぎたが、いまでも悲しくてたまらない。もう年老い
  て、安酒場で酒とチップのために踊る身の上。もうたくさんだと思っても「踊っておくれ!」と声が
  かかる。

 およそこんな内容の歌だ。1971年ごろに買ったニッティー・グリッティー・ダート・バンド The Nitty Gritty Dirt Band のアルバム『アンクル・チャーリーと愛犬テディ Uncle Charlie and His Dog Teddy』に収録されていた1曲がその歌、「ミスター・ボージャングル」だった。
 ニッティー・グリッティー・ダート・バンドは、ギター、フラットマンドリン、5絃バンジョー、ハーモニカ、アコーディオンなどをたくみに駆使して演奏する5人組のカントリー・ロック・グループである。音楽の幅もひろく、フォーク、カントリー、ブルーグラスを中心に、ロックンロール、ケイジャン、ブルースなど、ほぼアメリカン・ミュージック全体を網羅している。
 どんなきっかけでアルバム『アンクル・チャーリーと愛犬テディ』を買ったのかは、いまとなってははっきりしない。しかし当時を思い起こせばFMラジオなどの音楽番組を聴いてのこととしか思えない。

 アルバム・ジャケットの写真はあくまでもアンクル・チャーリーと愛犬テディであって、ボージャングルと彼の愛犬ではない。アンクル・チャーリーはギターを弾きながら、よく知られた歌「ジェシー・ジェイムズ」をうたい始める。そしてホルダーにセットされたハーモニカを吹き鳴らす。愛犬テディも一緒にうたう。チャーリーのハーモニカに合わせてうたう。やがてフェイド・アウトしていくと同時にニッティー・グリッティー・ダート・バンドによる「ミスター・ボージャングル」のギターのイントロに移っていく。あたかもアンクル・チャーリー=ボージャングルかと思わせるようなたくみな構成である。
 このアルバムは名曲ぞろいだった。「ミスター・ボージャングル」のほかにも「シェリーのブルース」「プー横丁の家」など繰り返し繰り返し聴いた。ぼくはこの1枚でニッティー・グリッティー・ダート・バンド大ファンになってしまい、そんなこんなで数十年も聴きつづけてきていて、アルバムはLP、CDあわせて10枚以上は手元にある。

 「ミスター・ボージャングル」は、シンガー・ソングライター、ジェリー・ジェフ・ウォーカー Jerry Jeff Walkerが自身の経験をもとにつくった歌で、実話である。酔っ払って留置所にぶち込まれたときにそこで出会ったのが件の旅芸人の爺さんなのだが、その爺さんの名前がボージャングルだったかどうかははっきりしない。
 そもそもbojanglesは「のんきな」とか「成り行き任せ」という意味のスラングのようでもある。頭のなかはダンスのことばかりで成り行き任せの人生を送ってきた爺さんだが、ジェリー・ジェフ・ウォーカーは彼の話を聞くうちに、その真摯な生き方に感動を覚える。そこで敬称の「Mr.」がついて「ミスター・ボージャングル」の出来上がりというわけだ。1966年のことだ。

 ジェリー・ジェフ・ウォーカーは歌を仕上げて1968年にレコーディングするが、マイナーヒットで終わる。そして1970年、それまで鳴かず飛ばずだったニッティー・グリッティー・ダート・バンドが大ヒットさせ、この歌は世界じゅうにひろまる。日本でもテレビCMのバックにも使われたし、おそらく知らない人のほうが少ないのではと思われる。

 一気にさまざまな分野の歌い手が取り上げるようになるが、なかでもよく知られているのはサミー・デイヴィスjrである。ハーレムのショー芸人の父のもとに生まれ、幼少から巡業に明け暮れたという生い立ちを「ミスター・ボージャングル」の歌詞に重ねあわせてしまうのだろうか、好んでうたったようだ。軽くステップを踏みながらのしみじみとした歌い方にはジーンとさせられ、だれもが惹きつけられた。やはり超一流のエンターテイナーである。
 ジェリー・ジェフ・ウォーカーは地味な歌い手だ。この歌を表情をあまり変えることなく淡々とうたうが、ときおり人間味あふれる表情を浮かべる。悪くない。なかなかいい味を出している。ニッティー・グリッティー・ダート・バンドはいくつになってもやんちゃな5人組で、歌の内容にしてはちょっと陽気なうたい方だが、バックのアコーディオンはたまらない。ハリー・ニルソンも渋くて味がある。ちょっと変わったところではジュリーこと沢田研二までもレコーディングしていた。
 ぼくは長年馴染んできたニッティー・グリッティー・ダート・バンドをあげざるを得ないのだが、最近You Tubeで何度も見たジェリー・ジェフ・ウォーカーの味わいも捨てがたくなってきた。いつの間にか、彼はバックにペダル・スティールをつけてカントリー・シンガーになっていたが。

 ところで高倉健が聴いていたのはだれの歌かとネットでさぐってみて驚いた。ニーナ・シモンだという意見が圧倒的だった。おかしいな、ぼくには男の声のように聞こえたのだが……。
                                      (2013/02)
<2013.3.16>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第5回:病、そして生きること

 この2月末、4年ぶりに帰省した。両親はすでにいない。男ばかり3人の子どもが巣立ったあと家を売り払い、両親はわずかに離れた郊外に終の住処を建てた。20年ほど前に父が没、ひとり残された母も10年前に亡くなり、システムエンジニアで2歳年長の兄が東京から戻りそこでひとりで暮らしている。その兄が肩を骨折して手術を受けるという連絡があった。
 連絡をくれた青森在住の弟によれば、病院側は立ち会いがなくとも手術を進めるとのことでわざわざ行く必要もないと言うのだが、迷った末に肉親ひとりぐらいは立ち会わなくてはと思い、妻を連れ急遽帰省したのである。
 病室に入り、数年振りに会う兄には以前の面影はなかった。白髪混じりの髪や髭を伸ばし放題のまま仙人のおもむきでベッドに腰掛けていた。「痛くもないし医者は大げさだ。手術なんて必要ない。」などと威勢がよかったのだが、時間がくるとおとなしくストレッチャーにのせられ、手術室の二重の扉の向こうに消えていった。
 3時間半の手術を終え整形外科の担当医による説明を受けた。術前・術後のレントゲン写真から兄の肩の骨は金属でみごとに接続されているのが見てとれた。ただ肝機能・腎機能に異常があり、血糖値も高く糖尿病もあって、まっすぐに歩くことが難しく入院してから4、5日で3回も転んでいるとも付け加えた。さらに定期預金や株がどうとか、酒が呑みたいといった理由をあげてしきりに外に出たがるという。それでも入院してから数日酒を断っただけで血糖値などの数値は相当改善しているという。いずれ歩行のリハビリも含めて1カ月半ほどで退院となるが、食事を満足にとらずに酒びたりの生活に戻ってしまうことを懸念していた。歩行が難しいのは糖尿病のせいかと聞いてみたが、その可能性が高いという答えだった。

 父の死後、兄は一時実家に戻って地元で求職活動をしていたことがあった。しかし部屋にこもり酒ばかり呑み続ける兄に、体の変調を感じとった母が診療をすすめてもまったく聞き入れられないという電話が何度もあった。また数年前、弟から普通に歩けなくなっているとの連絡があったほか、車に乗せて無理矢理病院に連れていこうとした弟は兄と喧嘩になったとも聞いた。ぼくも何度か手紙や電話で「糖尿病のようだから、放っておくと脚の切断までいくぞ」と伝えたりしたのだが、聞く耳をもたなかった。
 弟はなんとしても病院に連れていかなければという考えで、「子どもじゃないし、治療を受けるかどうかいろんな考え方もあるし」というぼくの言い方は理解できないようだった。ただ兄は自分の抱えている病気をさほど理解しておらず、たんに病気と向き合うことから逃げているだけというのが、ぼくと弟の一致した見方である。
 この2月上旬には、兄に電話をかけていていざ体の話に移ったとたんに受話器を切られたことがあったが、それから間もなく風呂場で転倒しみずからタクシーで病院に向かうことになった。とりあえず、今回の入院が医師に診てもらうよい機会になったことに間違いはなく、弟もぼくも心配しながらも喜んだのであった。

 手術の翌日、弟と一緒に見舞った際、ベッドに腰掛けて元気そうな兄に糖尿病について聞いてみた。
 「こんなの、誰だって年をとればなるんだから放っておけばいい。治療したって治るわけじゃないし」
 「治らないだろうけど、放っておいたらまずいんだよ。悪化を抑えるにも治療が必要だろう?」
 「そうだよ、治らないんだよ。よく分かってるじゃないか」
と言うと口をつぐんでしまい、どう理解しているのか皆目見当がつかないのだった。
 実家に向かった。両親が建てた家もすでに築40年。玄関に入って愕然とした。頭の上や壁のあちらこちらには蜘蛛の巣が揺らぎ、三和土[たたき]も床もゴミや埃だらけ、廊下には新聞・封書類が積み重なり足の踏み場もなかった。一瞬、靴のまま上がろうかと思ったほどだが、晩年の両親が暮らした家と思い、とどまった。
 母が亡くなったとき「この家は俺がもらうからな」と宣言した兄だったが、それがこの有様かと思うと腹立たしくもあったが、ぼくには関わりのないものという思いもあった。そもそも兄も弟もこの家で数年程度暮らしたことがあるが、ぼくはまったくないのだ。
 思っていた以上に荒れた様子に驚くとともに、「ゴミ屋敷=孤独死」という文字が一瞬頭に浮かんだのだが、テレビで紹介されるゴミ屋敷と比べればまだましとも思えた。家を守るというのはひとりでは厄介だろうと案じていたが、ほかの件でも親戚から漏れ伝わってくる事柄もあった。

 また、弟夫婦からさまざまな話を聞いた。兄はすでに総入れ歯に近い状態らしいが、入れ歯が嫌いでいっこうに装着しないという。友人に誘われ居酒屋に出かけたのだが、満足に食べられない自分を尻目に美味いものをパクつく相手に腹を立てて帰ってきたという。また、伸ばし放題の髪と髭は入院してからのものではなく以前からのものらしい。入院の際に持ってきた替えの下着がボロボロのため、病院の立て替えという形で下着を買ってよいかという電話が看護師さんからあったともいう。
 これではなりふり構わずではないか。兄にとっては生きることすべてが面倒で、残りの人生をすでに放り投げているとしか考えられなかった。ただ入院に際して、新聞販売店や町内会長への連絡を済ませてあったことは意外で、弟も感心していた。
 医師は兄をひとりでおくのはよくないというが、誰かが同居したところで、せっかくの入れ歯を使おうとしない限り同じ食事を食べることもできない。また兄の酒をとめようとしても諍いが起きることは必至で、弟夫妻とも「しょうがないよな」というところで終わった。

 東京へ帰って2週間過ぎたころ弟から電話が入った。兄が糖尿病の治療を拒否しており今月いっぱいで退院しそうだという。ぼくはちょっと様子をみようと答えたものの、1日考えたあげく医師に手紙を書いた。
 兄は子どもではないので、糖尿病を放っておいたら将来どういうことになるのか、合併症などについて詳しく説明をしてもらったうえでの治療拒否であればやむを得ないこと、兄自身に「健康になりたい、長生きしたい」という気持ちがあるのなら手助けするつもりだが、本人にはその気持ちがまったくみえないので、われわれは距離を保ちつつ見守る程度のことしかできないように思うこと、いずれ介護が必要となった場合どういった問題が起きるのか、今から覚悟すべきであることは自覚しているといった内容である。
 その手紙から10日後、再び電話があった。兄本人から弟へ連絡があり、今日すでに退院したということだった。弟も驚いていたが、ぼくも予想以上の早さに驚いた。退院の際にはまた行くのだろうかと妻とも話し合っていた矢先のことだった。
 眠っていたのだろうか、電話に出た兄はあまり機嫌がよくなかった。「いつまでもあんなところにいるわけにいかないから、さっさと退院した」と話していた。もっと治療が必要なんだろうと話を向けると「そんなことは言われていない」と答えるが、とてもそのまま信じることはできなかった。今後は2週間に一度病院に行くとのことだった。あとは真面目に通院してくれることを祈るのみである。

 兄の今後については妻や弟と何度も話しているのだが、兄はもう還暦を過ぎているのだし、酒が呑みたいのなら好きなだけ呑んでもらうしかないだろうし、好きに暮らしてもらってよいのではないかという結論に落ち着いている。しかしながらその先、突然死んだ場合はどうするのか、まったく歩けなくなって介護サービスが必要になったらどうなるかというところに話がすすむと結論がすっきりしなくなる。
 ひとつ例をあげてみる。80歳を過ぎた知人が千葉県某市の高齢者向け優良賃貸住宅にひとりで暮らしている。民間集合住宅だが県から補助が出ている。部屋の広さは40平方メートルほどで自己負担分の家賃は7万円台である。そこには住人の安全確認のために、24時間対応のさまざまな工夫がなされている。
 1.室内の決められた場所に鍵を置くことで管理会社が住人の在宅を確認できる。
 2.安否確認の水センサーにより、一定期間水の使用がないと管理会社が確認に入る。
 3.寝室・トイレ・浴室に緊急通報装置が設置されている。
 4.緊急ホンによりボタンひとつで管理会社に連絡ができる。

 集合住宅であればこういったしくみも可能でおおいに広まってほしいのだが、戸建て住宅ではセキュリティ会社と契約するしかない。懐具合を勘案しての個別の対応ということになる。兄の場合はどうかといえば、彼の性格からいって、持ちかけてみたところで「必要ない!」のひとことで話は打ち切りとなるのは目に見えている。結局兄がいくら嫌がろうとも、ときおり電話を入れて様子をうかがうしかないのだろう。
 いまぼくはふたり暮らしだが、先に相棒が死ねば状況は兄と同じだ。連絡を入れて不審に思った誰かが来てくれることに期待するしかない。つまり死後数カ月も過ぎて発見されることもやむを得ないと受け入れるしかないのだ。後始末をしてくださる方には申し訳ないことなのだが、死ぬ側としてはそのあたりに落ち着かせて勘弁いただくしかない。
 問題は介護サービスを受ける場合である。医師への手紙では「覚悟すべきであることは自覚している」などと書いておいたものの、現実問題としてどうすべきかよく分からない。とはいっても、介護サービス会社と相談して症状をみながら対応を決めることになるのであろう。そのためには兄の嫌いな医師の診断が必要となることは言うまでもない。
 母がひとり暮らしになって数年後のこと、身のまわりの整理程度の軽い介護サービスを受けるようになっていたが、やがて痴呆のような症状が出てきたため介護サービス会社へ相談にいったことがある。応対してくれた女性の所長は母の痴呆については認めつつも、軽度のため「もう少し様子をみましょう」という結論に終わったことを思い出す。その3カ月後、母は2トン車に巻き込まれて死んだ。とくに痴呆が事故の原因ということではなかった。
 この原稿に頭をひねっている間にも80歳を超えた方からメールが入り、90歳の方からは電話が入る。どちらもすこぶる元気だ。兄にこういう方々の話をしても、あまりピンとこないようである。ぼくは兄の様子をうかがいながら、茫とした不安を抱えつつもうしばらく生きる。相棒のために。
                                      (2013/04)

<2013.4.8>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第6回:沖縄を思う

 「こんなに美しい海を埋め立てるなんて。見に来なければよかった」
 この年3月、衆議院議員による沖縄県辺野古視察の際に自民党のある女性議員が漏らした言葉だそうだ。共産党・赤嶺政賢議員が東京都内の集会でこの言葉を紹介、『しんぶん赤旗』記者のツイートを介してひろまった。その女性議員はごく当たり前の感性の持ち主だろうと思うが、「見に来なければよかった」ではなく「埋め立てに断固反対する!」とか言ってくれていたらなおよかった。
 岬の突端は米軍基地キャンプ・シュワブのなかにあるので、埋め立て予定の海を船から視察したのであろうか。ぼくは辺野古には行ったことはないが、この5〜6年インターネット上の「辺野古浜通信」から情報を得ているし、本土復帰から10年ほど過ぎたころ、辺野古から南に下った宜野座 [ぎのざ]の潟原[かたばる]の海岸に行ったことがあって、その美しさは知っているつもりだ。
 ひろいパイン畑を抜けたところの店先にいたおばさんが「7年前だったらもっと綺麗だったけどね。いまはちょっとねー」と話していたことを思い出す。それでもぼくにとっては充分すぎるほど綺麗な海だった。頭上を米軍機が突っ切っていった。
 さらに南下して金武[きん]湾をぐるりとめぐる。平安座[へんざ]島を案内してくれたタクシーの運転手さんは、巨大な石油タンク群の周囲を回りながら、石油備蓄基地を誘致するために県立自然公園の指定をはずされたと語った。車を停めると「綺麗なところがあるから」と藪を掻き分けてぼくを呼び寄せた。真っ青な海がひろがる。手前には小さな村や港。海中に透けて見える珊瑚礁を切り開いた水路のなかを伊計島からの漁船がゆっくり進む。のどかで豊かな眺めだった。「むかしはもっと綺麗だった。この10年でだいぶ汚れた」。運転手さんは使い慣れない本土言葉で懸命に話してくれた。

 民主党から自民党へ政権が替わっても、政府要人の沖縄詣でが頻繁に報じられる。普天間基地の辺野古移設は、そもそもたんなる基地の移設というレベルの話ではなく、米軍の大規模な新基地建設である。政府は固定化はないと言うが、一度つくったら元には戻らないのは分かりきったことだ。
 テレビの画面で仲井真弘多[ひろかず]沖縄県知事を目にするたびに苦々しく思う。彼はそもそも辺野古移設には条件付きながらも容認だった。
 2010年10月22日、文京区民センターにて、辺野古移設反対を掲げて沖縄県知事選に出馬表明していた前宜野湾[ぎのわん]市長の伊波洋一支援集会が開かれた。国内外のテレビ取材も入り、用意した椅子が足りなくなるほどの人々があふれ、伊波の当選確実かとも思われる熱気だった。ところが、仲井真は公示直前になって伊波と同じ移設反対に転じ、11月28日現職の強みを生かして再選された。
 それから3年、いまのところ仲井真は反対の姿勢をくずしていない。外交評論家天木直人は「ぶれることなく選挙公約である『辺野古県外移転』を一貫して政府に言い続ける仲井真知事を、褒めて、褒めて、褒めまくる。そのことによって仲井真知事が二度と条件付き容認に戻れなくさせる」(2011年1月22日付メルマガ)と記しているがそれしかないのだ。仲井真の言動からは再び豹変するのではないかと感じることもあるが、いまこそしっかり支えなければならない。仲井真知事は今年4月28日の「主権回復の日」に欠席を表明したものの副知事を代理出席させるという。欠席と表明できないのはなぜなのか。このあたりにも仲井真知事の不可解さが見え隠れする。

 辺野古の美しい自然を壊してはいけないことはもちろんだが、なにしろ県民の大多数が移設に反対を表明しているという事実がある。
 今年1月27日、東京日比谷の野外音楽堂では、沖縄の41市町村の首長・議長、県会議員、沖縄選出国会議員らが出席して「NO OSPREY東京集会—オスプレイ配備撤回! 普天間基地の閉鎖・撤去! 県内移設断念!」が開催された。つまり沖縄選出の自民党を含めての国会議員、全市町村長が反対を表明したのだ。那覇市長の翁長雄志[おながたけし]をはじめ、圧倒的に保守系の人々が多いにもかかわらずである(4月下旬になって、自民党の西銘・島尻2議員が移設容認に転じた)。追って4月12日付『沖縄タイムス』で全県世論調査の結果が報道されているが、移設反対が74.7%、賛成が15.0%という結果である。
 さまざまなところで数字が示されているとおり、日本の国土面積の0.6%しかない沖縄県にはすでに在日米軍基地の74%が集中配備されている。これは沖縄の米軍による占領が「二五年から五〇年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与[リース]というフィクション」のもとで行われることを希望するという昭和天皇の「沖縄メッセージ」(1947年)にほぼ沿ったものである(豊下楢彦『安保条約の成立』岩波新書、1996年)。
 進藤栄一(当時筑波大学助教授、現同大名誉教授)によってアメリカ国立公文書館で昭和天皇の「沖縄メッセージ」(「天皇メッセージ」ともいう)が発掘されたのは1979年だが、何度も沖縄訪問を切望していた昭和天皇の念頭に「沖縄メッセージ」がどれほどあったものだろうか。
 「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」
 これは1987年、皇太子時代の今上天皇が、病臥の昭和天皇名代として沖縄海邦国体に出席した際に代読したものであるが、けっして充分とはいえない内容になっている。
 いずれにしろ、日本の憲法や法律よりも上位にある軍事施設を「金をやるから引き受けろ」と沖縄にいつまでも押しつけてはならない。沖縄から基地を撤去させることはあってもこれ以上つくってはいけないし、辺野古の新基地建設を許してはならない。2007年から北部の東村高江にヘリパッド建設工事が進められている。小さな高江集落を取り囲むように6つのヘリパッドがつくられる予定で、オスプレイが飛び交うなかで暮らせと言っているようなものだ。これも早急に中止させなければならない。
 4月3日付『琉球新報』によると、何度も沖縄に足を運んでいるカール・レビン米上院軍事委員長は海外の米軍兵力を縮小の必要性に触れて「とりわけ太平洋地域、特に沖縄」と述べ、辺野古移設は「実行不可能」と唱えていること、さらに米下院議員から転じたハワイ州のアバクロンビー知事は辺野古移設は行き詰まり、グアムへの海兵隊移転も費用がかさむので困難と指摘し、環境が整ったハワイが担うと誘致に乗り出している。こういった動きは本土の新聞で報じられることはない。

 ところで、少々気になる動きもある。
 3月22日、沖縄防衛局が県北部土木事務所に米軍普天間飛行場の移設先となっている辺野古沿岸の埋め立て承認申請書を提出したが、3月26日付『沖縄タイムス』によると、共同通信が実施した埋め立て承認申請書提出についての全国電話世論調査では、評価するが55.5%、評価しないが37.6%となっている。
 先の1月27日の日比谷野音の集会にはおよそ4,000人が参加し、集会のあとに銀座のパレードに移った彼らを沿道で待っていたのは、日の丸の旗を持ち「非国民」「売国奴」と声をあげ沖縄の人々を排斥しようとする一団だった。この件に関し伊波洋一は、4月2日のIWJ・岩上安身によるインタビューのなかで次のように語っている。
 「沖縄の首長さんたちの多くは保守系の方々で、まさか自分たちがそのようなものに遭遇するとは思っていなかったはずで、『あぁ、自分たちは違うんだなぁ』ととても大きいショックを受けているんです」。さらに「安倍政権、また安倍政権に近い維新の会などの新保守的な旧憲法回帰、戦前回帰を掲げる人々が、沖縄からみるとまさに日本的価値観にみえる。そこにヤマト=日本の本質的なものが表れているように思える。日本と沖縄の間には大戦直後にできた溝があるが、今後その溝が大きくなりそうな気配がする」と続けた。
 ほぼ沖縄県全体が反対という意思を示しているにもかかわらず、日本国民の半数以上は賛成という構図が明らかにある。やはり多くの人々の心には「沖縄の人たちは国の政策に従え」「嫌なものは沖縄に押しつけておけばいい」といったものがあるのだろうか。
 沖縄生まれの詩人山之口貘の随筆には門先に「朝鮮人と琉球人はお断り」という貼り紙を掲げた工場が登場するし、関東大震災(1923年)では流言による朝鮮人虐殺もあった。そしていま第二次安倍政権となって以降、沖縄排斥の動きに加え、東京新大久保、大阪鶴橋のコリアンタウンでは在日朝鮮人・韓国人排斥デモがある。これはまさに伊波洋一の言う「戦前回帰」の姿であって、これがこれから向かう日本だとしたら悲嘆に暮れるしかない。
 岩上安身は3月から4月上旬にかけて、先の伊波洋一のほかに元沖縄県知事大田昌秀、琉球大学教授我部政明、沖縄国際大学大学院教授前泊博盛(元琉球新報論説委員長)にも長時間のインタビューを行っている。どなたも真摯に笑顔でインタビューに応じてくれてはいるものの、その言葉の端々からは「あんたたちは俺たちのことをどう思っているんだ。同じ日本ではないのか?」と突きつけられているものを感じる。いくらそれを否定してみたところで、日本政府の政策は沖縄を明らかに植民地として扱っており、夏の参院選に向けて日本世論調査会が行った全国面接世論調査では自民党支持50.6%、しかも衆参ねじれ解消を望む人々が68%(『東京新聞』4月7日付)という現実がある。これは見過ごすことのできない兆候であり、夏の参院選で政権与党が過半数を占めることはなんとしてでも阻止しなければならない。
 多数決という民主主義では、日本の人口のわずか1%という沖縄の意思はなかなか反映されにくいのは確かだが、このままではますます沖縄を追いつめ、切り離していくことにならないだろうか。昨年のオスプレイ強行配備に続いて4月18日、PAC3が航空自衛隊那覇基地と知念分屯基地に配備された。民主党政権時から計画されていたことなのだが、今回の北朝鮮ミサイル問題をうけて安倍政権は有無を言わせずさっさと沖縄に運び込んでしまったのである。

 先の沖縄の旅の途上、ある島に渡った。偶然のことからとある家庭でふた晩お世話になった。65歳になるお父さんが、泡盛の入った湯飲みを前に三線[さんしん]を弾いてくれた。うたう枯れた声が夜の闇へ吸い込まれていく。1曲終えるごとに歌の説明をしてくれるが、お父さんの言葉はぼくにはほとんど分からず申し訳なかった。那覇から帰省中の30代半ばの長男からは地域左派政党、沖縄社会大衆党(現委員長=糸数慶子参議院議員)のことを聞いた。さらに、沖縄の人たちの心の底には「沖縄独立」がいつでもあって、事件が起きるごとに表面に出てくるが、昔からずーっとあると話していた。自治体職員だというが「ちょっと話しすぎた。自分のことは内緒にな」と笑っていた。
 現在日本政府は「思いやり予算」と称して、協定上も支払い義務のないはずの米軍の基地駐留経費の多くを負担しているが、これを拒否できるなら、アメリカ政府は膨大な軍事費の確保ができず日本じゅうの基地を引き上げることになるはずである。まずはこれを実現すべきなのだが、いつまでたってもそういう政治家は現れず、沖縄の人々は「独立」を思い描くことになる。
 大田昌秀も我部政明も沖縄独立の話が人々の間に蔓延していることを認めながらも、我部は「まだまだ現実味がない。まず独立の目的を明確にさせること」と安易な独立論には釘を刺す。東京外語大学大学院教授伊勢﨑賢二はイラクが駐留米軍を撤退させた例をひきながら、沖縄独立を掲げる地域政党を立ち上げることから始め、「民族自決」を旗印に沖縄のすべての議会を掌握したのちワシントンに政党事務所を置き、世界に訴えかけながらアメリカ政府を相手に「日米地位協定」の改定交渉を行うことで米軍撤退を実現できるだろうと語る(『通販生活』2013年春号)。
 かつて日本の統治下にあったパラオは人口約2万人だが、いまでは立派な独立国である。独立はけっして現実味のない話ではない。もし沖縄の人々の大きなうねりとなっていくようであれば積極的に応援する。
 終わりに、「辺野古に関して、沖縄の人たちは絶対に諦めることはない」と我部政明が語った力強い言葉に望みを託したい。その一方、安倍首相には沖縄の人々に正面から向き合おうという姿勢がまったくみられないことが気になるが、後世に「第二の琉球処分」として記録されるような、軍事力を背景とした行動はくれぐれも慎んでもらいたい。         
                                        (2013/04)
[参考] IWJ 日米地位協定スペシャル
http://iwj.co.jp/wj/open/jpus-sofa
(半年間は非会員にも無料公開中)

<2013.4.26>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第7回:原発ゼロは可能か?

 新聞やテレビの発表によると、政権の支持率が高く安倍首相はすこぶる元気だ。5月上旬には中東を歴訪し、「世界一安全な原子力発電の技術を提供できる」と語り、アラブ首長国連邦(UAE)、トルコと原子力協定に合意し、トルコのシノップ原発4基の受注をほぼ決めた。そして7月の参院選の公約には安全性確認を条件としながらも、いよいよ「原発再稼働」を掲げるらしい。
 すでにトルコは2010年にロシアからの原発導入を決定していて、その政府間協定によると、ロシア側が原発の建設、運転、保守、廃炉措置、放射性廃棄物管理、損害賠償の責任を負うことになっている(「アックユ・プロジェクト」)。日本とトルコとの原子力協定の詳細は明らかにされていないが、これと同等のものではないかという未確認情報もある。つまり、放射性廃棄物は日本に持ってくることになるのだろうし、事故が起きたら日本がその対応の責任を負う。
 トルコは地震国であり、「トルコで自動車爆弾爆発、43人死亡」(AFP=時事、2013年5月12日付)というニュースも飛び込んできた。安倍政権にはそういう国に原発を輸出することの覚悟があるのだろうか。

 このトルコとの原子力協定の詳細は気になるところだが、安倍首相のいう「世界一安全な原子力発電の技術……」とはどういうことであろうか。素人なりに考え込んでしまった。福島第一原発の事故直後の対応を思い起こすと、日本にそれほどのものがあるのだろうかと首を傾げてしまう。
 それでもぼくなりに探ってみて辿りついたのが、(株)日本製鋼所の室蘭製作所という事業所だった。第二次世界大戦中に戦艦武蔵や大和の砲身を手掛けた会社で、現在は巨大プレス設備と日本刀の鍛錬技術を駆使した世界で唯一といわれる高い技術力で、原子炉の圧力容器部材では世界で80%のシェアを占める。工場の一角には1918年(大正7)に開設された鍛刀所があり、現在でも刀匠による日本刀製作も行っている。この説明を始めると経済ジャーナリストのリポートの全文を引き写すことになってしまうので遠慮するが、興味のある方は調べていただきたい。だれでもが感嘆してしまうほどの素晴らしい技術のようだ。残念なことに、今後世界で180基の原発新設計画があることを見込んで設備の拡大中に福島第一原発の事故が起き仕事は激減、この5月から従業員が一時帰休に入ってしまったという。
 必ずしも優秀な技術イコール安全ということではないが、安倍首相の脳裏にはこういったいくつかの企業があったことは間違いないだろう。しかしながら、もう原発関連の仕事を中心に据えての経営は尻すぼみになることは間違いなく、こういった優れた企業には早く原発からの撤退を図ってもらいたい。日本製鋼所は火力発電や風力発電関連の技術も持ち合わせているようだし、新たな道を探ってほしいと思う。いずれ原発は停めざるを得ない。
 多摩大学大学院教授で田坂広志氏という人物がいる。「ウィキペディア」には「工学博士(原子工学)、シンクタンク・ソフィアバンク代表、社会起業家フォーラム代表」とあるが、ぼくは詳しいことは分からない。福島第一原発の爆発事故から間もなく菅直人首相から請われ、2011年3月29日から9月2日まで内閣官房参与として官邸で事故対策に取り組んでいる。内閣参与を辞任して1カ月ほど過ぎて行われた講演をたまたまYou Tubeで聞いてこの人物を知った。
 田坂広志氏は1951年生まれ。原子工学を修めたのち、民間企業やアメリカの国立研究所で放射性廃棄物最終処分プロジェクトにたずさわってきた専門家で、20年間まさに原子力ムラのなかで仕事をしてきている。その後の20年間は別の世界の仕事をしていて今回の原発事故が起こり、再び原子力の世界に引き戻されてしまったようだ。
 さらに別の記者会見を見て知ったのだが、彼は原子力ムラから離れたいつの時期かかなり重度の病気に罹っている。病名を明かしていないが、放射線が原因と察せられる病気のようだ。仕事中の被曝量を放射線業務従事者の許容範囲に生真面目なくらいに抑えてきての発病で、ずいぶん大きなショックを受けたと語っている。
 菅政権から野田政権に替わり年が明けた2012年春、大飯原発再稼働の話が出始めたころ、田坂氏の「再稼働しても、原発は必ず止まる」(『Voice』PHP研究所、2012年5月号)というインタビュー記事を読んだ。
 彼が言わんとするところはまさにタイトルどおり、いくら原発を再稼働してみたところで、いずれ停止せざるを得ないというものだ。田坂氏はぼくのような素人ではない。原子力の世界にどっぷりと浸ってきた人物であり、官邸内で、つまり向こう側で事故対策にあたってきた人物の発言である。
 いずれ原発を停止せざるを得ない理由として、田坂氏は原発を稼働させることによって出てくる使用済み核燃料の保管場所がないことをあげる。2010年時点で日本の原発に併設されている使用済み核燃料プールの平均満杯率は70〜80%で、六ヶ所村の保管施設を含めて軒並み満杯に近づいていると指摘する。しかもいまだに六ヶ所村の再処理工場が試運転状態では、使用済み核燃料の持っていき場がなくなってしまうのだ。
 多くの国では使用済み核燃料をそのまま廃棄(直接処分)しているが、その場合、使用済み核燃料=高レベル放射性廃棄物として最終処分される。フィンランドの最終処分施設オンカロで行っているのも、使用済み核燃料を廃棄物として地下400メートルに埋設するやり方である。
 しかし日本が目指す核燃料サイクルでは、使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出し、それを高速増殖炉でまた燃料として使う計画である。その際に出る高レベル放射性廃棄物が最終処分されることになるが、その処分場もまだ決まっていない。
 事態は切迫しているのだが、核燃料サイクルの中核となる再処理工場や高速増殖炉もトラブル続きで稼働しておらず、「もんじゅ運転禁止」というニュースも流れてきた(『東京新聞』(2013年5月15日)。もし完全撤退となれば、溜め込んできた大量の使用済み核燃料と約45トンものプルトニウムはいきなり高レベル放射性廃棄物として処分する必要に迫られることになる。さらに今回の事故でメルトダウンを起こした3基の原子炉自身がきわめて厄介な高レベル放射性廃棄物になってしまっている。まるで日本じゅうに核のゴミが溢れかえっているようである。
 事故前であれば国内でも最終処分地をさがすことは不可能ではなかったのだが、事故を経験したいまとなっては最終処分場を引き受ける地域は皆無となってしまった。田坂氏は言う。
 「この高レベル放射性廃棄物の最終処分の問題は、原発推進の立場であろうと、脱原発の立場であろうと、必ず解決しなければならない問題ということです」
 原発を稼働させようが停止させようが、核廃棄物は処理しなければならない。しかし原発を稼働させれば、核廃棄物がどんどん増え続けるのである。

 ところで、原発推進を唱える人は放射性廃棄物の処分の問題にはあまり触れないようにも思える。石原慎太郎氏もこの件について語ったのを聞いた記憶がないのだが、調べてみるとそうでもなかった。かつて「ロケットで宇宙に捨てればいい」と言っているようだ(広瀬隆氏ブログ)。そういえば吉本隆明氏も『「反核」異論』(深夜叢書社、1983年)で語彙は異なるが同様のことを書いていたはずだが、100%事故は起きないという確信でもあるのだろうか。1986年のスペースシャトルチャレンジャーのような爆発事故も起こり得るのだから、まったく説得力のない話でしかない。
 吉本隆明氏といえば、『週刊新潮』(2012年1月5・12日合併号)掲載のインタビュー「『反原発』で猿になる!」のなかで「自動車だって事故で亡くなる人が大勢いますが、だからといって車を無くしてしまえという話にはならないでしょう。ある技術があって、その為に損害が出たからといって廃止するのは、人類が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方を否定するものです」などと述べている。16万人もの福島県の人々が故郷を追われ(『東京新聞』社説、2013年4月27日付)、土や水が放射能にまみれ、多くの人が生業を捨て、遺伝子にまで影響をおよぼしかねない原発事故と自動車事故では、比較にならないとは思わないのであろうか。
 関連するが、元東芝の原子炉格納容器の設計技術者後藤政志氏は次のように語っている。
 「技術というのは失敗を体験し、それを乗り越えて発展していくのが大原則なんです。原子力の一番の問題点は、失敗が許されない技術だということに尽きます。(中略)それが私の結論です。原子力は技術とさえいえない。なぜなら失敗が許されない技術は将来も発展できません。改善し、発展することが不可能だからです」(『通販生活』2012年春号)
 つまり、車も飛行機もいまのような完成されたものになるまでには、何度も事故を起こし多くの人が犠牲になったうえで改良が加えられてきている。原発の場合は事故の影響が桁違いに大きすぎるために事故自体が許されず、技術を磨き上げていく道が閉ざされてしまっているのである。
 後藤氏は以前より原発の安全性についての疑問を公表していたが、福島第一原発の事故を契機にそれまでのペンネームを実名に替え、顔を露出しての活動に転じた人物である。
 ちょっとそれてしまったが、原発はこの放射性廃棄物処理の問題一点をもってしてもすでに破綻しているのではないか。そして、もはや原発はそれほど必要なものではないのではないのか。
 関西電力は、2012年4月24日の大阪府市エネルギー戦略会議の席上、原発再稼働に関して電力需給の問題とは関係がないことを明らかにしているし、この冬も大飯原発2基の稼働のみで充分に余裕があった。これは実質、大飯原発が停止しても電力需給に影響がないことを示している。
 安倍首相は6月に東欧へ原発輸出交渉にでかけるなどと報じられているが、もうこれ以上地球に核のゴミをばらまくようなことはやめ、原発を停止させて核のゴミ処理の問題に正面から取り組んでみてはいかがなものだろうか。
 ここは田坂氏の言葉を信じよう。「再稼働しても、原発は必ず止まる」。そして原発はすべて国の管理とし、電力周波数の統一・発送伝分離など電力供給のしくみを改め、電力会社をすべて完全民営化して再出発させてもらいたい。憲法改正などよりもこちらのほうがずっとやりがいのある仕事と思われるのだが、安倍首相よ、それでも君は原発を続けるか?
 ところで、話はそれほど簡単ではない。2012年9月、民主党野田政権が発表した「2030年代に原発ゼロを目指す」という政策をめぐって行われた日米協議で、アメリカ側からの強い圧力により閣議決定を見送ったことがあった(『東京新聞』2012年10月20日付)。アメリカは再稼働をうながすのみだ。核廃棄物を引き受けてくれるわけではない。
 アメリカが大きなネックになっているのは間違いないだろう。しかし、あの2011年の震災・事故後の混乱のなかであれば、脱原発、電力会社解体へ向けて、アメリカに口を挟む隙を与えずに一気に転換が可能だったように思える。惜しいことだが、最大のチャンスを逃した。菅首相はメルケル首相にはなれなかった。いつまでも原発にしがみついていては日本は行きづまる。 (2013/05)

<2013.5.28>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第8回:ぼくの日本国憲法メモ ①

 数年前のこと、20歳も年長の大先輩と居酒屋で会ったとき、「面白い本だから」と1冊の本を渡された。樋口陽一『ふらんす── 「知」の日常を歩く』(平凡社、2008年)。まだ刊行間もない本だった。読み終え、「とても面白い」とメールを打ったら、同じ樋口氏の2分冊の自費出版の本が送られてきて驚いた。
 樋口陽一氏は憲法学者で、ぼくにとってはまったく縁遠い人物だった。しかし、これらの本は憲法の本ではなかった。樋口氏は1960年のフランス留学をきっかけに何度もフランスを訪れていて、フランスの国や社会のなりたち、フランス人の思考の根底にあるものを中心とした随筆類で、平易な文章ながら奥が深く学ばせられた。とくに自費出版のほうは、海軍大将井上成美[しげよし]の、戦後の横須賀での隠棲に近い暮らしぶりを描いたもの、それに大学での同窓井上ひさし、菅原文太との鼎談(月刊誌『ジュリスト』掲載のものだったと思う)が印象にのこった。
 この2分冊の自費出版の本は、樋口氏と付き合いの古い創文社が編集を手掛けていた。店頭売りではないので、不要なものを削ぎ落としたすっきりとした品のよい装幀・造本だった。アルファベットだけの書名で、「仏和辞典には載ってない単語だった」と話したら、「あれはラテン語だ」と笑われた。とにかく新たな面白い著者を知ることになったのだから、大先輩には感謝である。

 その樋口陽一氏が怒った。いや正確には怒ったかどうかは分からないが、立ち上がった。『東京新聞』(2013年4月24日付)1面に、樋口氏、憲法学者の小林節氏、政治学者の山口二郎氏ら5人が並んでいる様子がカラー写真で掲載された。
 その前日、憲法96条の改正に反対する憲法学や政治学の研究者39人が発起人となって立ち上げた「96条の会」の発足会見が行われ、代表となったのが護憲派の代表格樋口氏だった。これに、「今回初めて樋口氏と同じ側に立った」という、筋金入りの9条改憲派の小林氏も加わる異例の集まりとなったことからも、日本国憲法の根幹にかかわる事態であることが見てとれた。
 ことの発端は、安倍首相をはじめ自民党・日本維新の会・みんなの党が、憲法96条の改正に意欲をみせていることにある。そもそも96条は憲法改正手続きに関する条項で、憲法改正は衆参それぞれの総議員の3分の2以上の賛成で発議されたのち国民投票で過半数の賛成を要するのだが、改正を目論む輩たちはそのハードルさえ下げてしまえば、あとは9条だろうがなんだろうが改正も思うがままと踏んだわけである。
 ここでひと呼吸をおいて、憲法96条ではなく99条を引いてみる。
 「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」
 どういうことかというと、国会議員には憲法を守る義務があるが、国民にその義務はなく、国会議員に憲法を守らせる立場にある。国会議員は当然のような顔をしてみずから改正を言い出してはいけない。せめて形だけでも国民、選挙民から強い要望があったように装ってもらいたい、というのが99条の素直な読み方ではないのか。国会議員は立場をわきまえろということである。

 話を戻す。自民党は、1955年の結党時の「党の使命」に「憲法改正」があらわれるのをはじめ、「2005年綱領」では「新しい憲法の制定」を、「2010年綱領」で「新憲法制定」を掲げていて、一貫して憲法改正や新憲法制定を目指してきている。樋口氏は「自民党は、少なくとも政綱を見ると、日本国憲法を根本から引っ繰り返そうという革命政党」(井上ひさし・樋口陽一『「日本国憲法」を読み直す』〈講談社文庫、1997年〉)とまで述べているほか、自民党石破茂幹事長は「自民党は憲法改正のためにつくられた政党だ。国政選挙で訴えないのは、わが党のとるべき態度ではない」(NHK番組、2013年6月2日)と、憮然とした顔で開き直っている。
 そんな自民党にあっても、「96条先行改正」はけっして主流派ではなく、あくまでも安倍首相の持論だという。安倍氏が党幹事長や官房長官などの主要なポストにあった2005年の「改憲草案」で初めて明文化され、昨年公表の「憲法改正草案」にも受け継がれている(『東京新聞』2013年5月3日付)。
 『朝日新聞』(2013年4月24日付)の96条の会発足会見の記事で、樋口氏は「国会は3分の2の合意形成まで熟慮と討議を重ね、国民が慎重な決断をするための材料を集め、提供するのが職責のはず。過半数で発議し、あとは国民に丸投げというのは、法論理的に無理がある」と述べ、自民党に近い位置にいた小林節氏までも「憲法に縛られるべき権力者たちが国民を利用し、憲法をとりあげようとしている」と強い口調で非難している。小林氏の顔は鬼瓦のようにいかつい。
 要するに、改正が必要なら自ら描く国家の将来像を示しつつ堂々と訴えかければよいのである。一国の首相の身でありながら、安倍氏には潔さがまったく感じられない。
 そんな安倍首相の発言から思わぬ波紋がひろがっているらしい。憲法を読み直してみようという人が増え、書店では憲法関連書籍の売れ行きが好調というから結構なことである。そんな人の多くは7月の参院選でも自民党に投票するようなことはしないはずだ。憲法についてはまったく無知だったぼくも書棚で眠っていた本を引っ張り出し、加えて何冊か買い込む有様でたのしく勉強させてもらったが、安穏としていられる事態ではない。

 ところで、ずっと以前からのことだが、「押しつけ憲法」とか「占領憲法」という言い方がある。占領期間中にアメリカから押しつけられた憲法ということであろうが、気になりながらも放ったままだったので、これを機会に素人なりに調べてみることにした。
 名著といわれる古関彰一『新憲法の誕生』(中公文庫、1995年)をひもといてみる(あとで気づいたことだが、『日本国憲法の誕生』〈岩波現代文庫、2009年〉という書名を変えた改訂版が出ていた)。
 敗戦直後の1945年10月4日、東久邇宮内閣の無任所大臣近衛文麿がGHQ本部を訪れた際に、マッカーサーが「日本の憲法は改正しなければならん。憲法を改正して、自由主義的要素を充分取り入れる必要がある」と大きな声で述べている。当然近衛は「えらいこと」と受けとめているが、これが大日本帝国憲法改正の発端となる。
 この翌日に東久邇宮内閣総辞職、10月9日、幣原新内閣成立。13日の新聞発表にて国民は初めて憲法が改正されることを知るが、紙面の報道では天皇が命じて日本側が自主的に改正を考慮していた体裁をとった。のち近衛の失脚をへて、政府の憲法問題調査委員会(委員長=松本蒸治国務大臣)主導による改正作業が始まる。
 憲法改正はマッカーサーのひと言から始まったもので、この段階ではまさに押しつけられたものである。しかし、報道を通して国民に知らされる場合は押しつけたことにならないようにアメリカ側は気をつかっているが、それはこの件にかぎらず現在でも相変わらずで、いずれ暴露されることも少なくない。

 憲法の改正草案には、松本を委員長として進められた政府案のほかに、各政党案、憲法懇談会案、憲法研究会案などの民間草案があったが、なかでも最もGHQから高い評価を受けたのは自由民権期の民権思想が反映された岩野三郎、鈴木安蔵らによる憲法研究会案だった。
 憲法研究会による「憲法草案要綱」はあわただしい年末の12月26日(27日説もある)にGHQに提出されたにもかかわらず、翻訳局による翻訳をへて翌1946年1月2日には政治顧問アチソンの評価を添えて国務省に報告書が送られている。他方、民政局行政部でも別訳をつくり1月11日にはラウエル中佐による詳細な所見とホイットニー民政局長の署名をへてマッカーサーに提出されていることからも、相当の重要度をもって受け止められたことがみてとれる。
 戦前の日本で少女時代を過ごし、GHQ案作成の人権委員会に所属したベアテ・シロタ・ゴードン『1945年のクリスマス──日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝』(平岡磨紀子訳、柏書房、1995年)にも、法学博士で弁護士やロサンゼルス連邦検事という経歴をもつラウエル陸軍中佐が、憲法研究会案に好意的な説明をつけて報告した様子が描かれ、憲法研究会を「当時の進歩的グループ」としている。
 その一方で政府案は、GHQ提出前に『毎日新聞』によってスクープされ、その内容に納得できなかったGHQ民政局が独自の憲法草案起草に取りかかり、日本側に極秘裏に1週間で仕上げることになる。結果的にこれが新憲法の叩き台となった。
 ベアテ前掲書には、「民政局には、米国内では進歩的思想の持ち主といわれるニューディーラーが多かったが、憲法草案に大きな影響力を持ったのは、ワイマール憲法とソビエト連邦憲法であった」と記され、GHQ案の作成にあたった25人は、法律家、民族学者、経済学者からなる知識人の集団であり、理想とする憲法を目指しての彼らの格闘が生々しく描かれている。彼らのつくり上げたきわめてラディカルな憲法原案は大幅に修正が加えられてGHQ案として仕上げられた。ちょっと気になるが、ここでいう「ニューディーラー」とは、「リベラリスト」「コミュニスト」「マルキスト」など、どう置き換えるのがふさわしいだろうか。
 政府案は1946年2月8日にGHQに提出された。自信家の松本国務大臣の強い指導力のもとに、諸外国の憲法をまったく参考にすることもなく明治憲法を基本としてまとめられたもので、天皇主権をのこし、人権条項はなかった。保守的な政府案は受け入れられるはずもなく、GHQ案が提示される(13日)。GHQ案は全92カ条のうち3分の1を人権条項が占めていた(ベアテ前掲書)。
 GHQ案は憲法研究会案をほぼそのまま英訳したものだとか、GHQ案の下敷きとなったのは憲法研究会案だといった記事をネット上でいくつか読んだが、少なくともここで取り上げた本のなかにはそのような記述はなかったように思う。
 日本側にGHQ案が提示される際、これを受け入れるなら極東委員会からの圧力に対して天皇は安泰になると迫られている。古関彰一は「押しつけたと断定するほどのものはない」とし、ベアテは「日本側にとっては脅迫に近いものだった」と記しているが、これは押しつけとしかいえないように思える。

 日本側はGHQ案を叩き台にした新たな政府案をまとめたのち、双方が会して逐条審議を行った。途中で日本側責任者の松本は体調不良の理由で帰ってしまったため、通訳をのぞくとGHQ側から出席した16人を相手に法制局官僚佐藤達夫ひとりの孤軍奮闘で30時間(古関書。ベアテ書は32時間)におよぶ作業で、GHQ案が日本化された確定案がまとめられたのが3月5日である。
 この作業も「押しつけ」といえなくもないが、土地の国有化や外国人の法のもとの平等の却下など日本側が押し切った条項もあり、また責任者が放棄してしまったこともあって一概に押しつけとはいえないだろう。ついでになるが、女性の人権について日本側は相当抵抗したが、日本で暮らした経験から日本女性のおかれた立場をよく知るベアテが書いたことを知らされると、日本側は納得して受け入れたという。
 翌6日、憲法改正草案要綱は日本政府がつくったものとして公表され、ただちにマッカーサーは承認声明を出した。4月17日、ひらがな口語による憲法改正草案が発表、5月16日に招集された第90回帝国議会に提出され、衆議院・貴族院・枢密院での審議・修正ののち天皇の裁可をへて11月3日に「日本国憲法」として公布された。その当日、貴族院本会議場の傍聴席には、GHQ案作成にあたった民政局のメンバーもそろった。
 1947年1月3日、吉田茂首相はマッカーサーから書簡を受け取っている。「(新憲法)施行後の初年度と第二年度の間で」憲法改正を必要と考えるなら自由に改正してよいという極東委員会の決定を伝える内容だった。吉田はごく短い返書を送ったのみで、1949年4月、憲法改正の考えがないことを国会で表明すると同時に、極東委員会の決議自体を「私は存じません」としている。著者の古関もこの吉田の真意をつかめず、「やがて占領も終わるだろう、憲法改正はその時考えればいいことだ、いまは時期がわるい」と考えたのではないかと推測している。
 以来日本国憲法は改正されることなく現在にいたっている。その間も自民党は何度も執念深く改正を試みたがかなわなかった。このようにみてくると、確かに押しつけはあったといえるが、その後の審議は充分につくされており、国民の納得のうえで60年以上にわたって施行されてきていると捉えるべきだろう。むろん、完璧なものではないにしろ少なくとも国民の利益に反するものではなく、多くの国民は改正を望まないという意思表示とも思える。
 樋口氏の言葉を引こう。
 「もちろん、憲法の基本価値そのものへの批判も含めて、議論はつねに開かれていなければならない。(中略)しかし、何より大事なことは、そのような意味での開かれた社会をデザインしたのは、日本では、ほかならぬ日本国憲法が初めてだった、という点です。(中略)私はいま日本国憲法に手をつければ誤った方向にしか行かないと考えるので、政界や論壇で議論されている改憲に、反対の立場です」(樋口・井上前掲書)
 同書の対談が行われたのは1993年で、もう20年も前のことだが、憲法をめぐる情況はいまもほとんど変わっていないことに驚く。

 今回は憲法関連の本を大急ぎで数冊目を通してみたが、成立過程をたどる作業は上質なドキュメンタリーを読んでいるようで思いのほか面白かった。それにしても、石原慎太郎氏や安倍晋三氏、石破茂氏らがさかんに憲法改正をとなえるのは、日本国憲法の叩き台をつくったのがニューディーラーたちであることに原因があるようだ。このことが分かったのは大きな収穫だった。また、その原案はもっとラディカルなものだったことも記憶しておきたい。
 いまの憲法にも不備があることはたしかだが、安倍首相のもとで改正するかどうかといえば、いじらないでおくほうが懸命のようだ。憲法をいじらなくとも政府はなんでもやってしまうことは、イラクやアフガニスタンへの自衛隊派遣のほか、アフリカ東部のジブチでの自衛隊海外基地建設などで明らかである。つまり憲法は機能していないのであって、これには改憲派の小林節氏もカンカンである。
 今回は憲法9条の問題にまったく踏み込むことができなかった。超党派の国会議員による「立憲フォーラム」、6月5日の第4回勉強会では、半藤一利氏による憲法9条は日本人がつくったという講演が行われたようだが、証拠となる新たな資料の発見があったわけではなく、彼自身の解釈を変えたということのようだ。いずれまた勉強してみたいと思う。  (2013年6月)

<2013.6.29>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第9回:2013年7月4日、JR福島駅駅前広場にて

 2013年7月4日、参議院選挙が公示され、選挙戦がスタートを切った。同日午前9時過ぎ、JR福島駅東口駅前広場では福島選挙区から出馬の自民党森まさこ氏(現少子化担当相)の街頭演説会が行われ、安倍自民党総裁が応援に駆けつけ、原発事故後の混乱に苦しむ人々を前に参院選の第一声をあげた。
 その翌5日朝、ぼくはYou Tubeで偶然こんな映像を見た。
 撮影は前日の、まさに福島駅前の自民党の街頭演説の場である。自民党の公約のひとつ原発再稼働をめぐって自民党本部と福島県連の立場が分かれていることをうけて、ひとりの女性が「総理、質問です。原発廃炉に賛成? 反対?」と書いたプラカードを持っていたところ、自民党関係者と私服警察官らしき人々が取り囲んだという。動画はそこから始まる。撮影は勇敢にも女性本人が行ったようにうかがえる。

http://www.youtube.com/watch?v=nRpZiNR48Ds
 この動画に登場する人々をめぐっては解釈が一様ではないと考えられるので、ぼくが感じ取ったままにまとめてみることにする。

 冒頭の画面にはふたりの男が大きく写っている。左が自民党関係者と思われる青いジャンパーの若い男で、もうひとりは50〜60代と思われる眼鏡をかけたノーネクタイのスーツ姿、中肉中背の男で、私服警察官(私服警察-1とする)と思われる。しかしその場を取り仕切っているのは右端から声を出している別の私服警察官(私服警察-2とする)で、姿は見えず声だけが聞こえている。その他数人の私服警察官がその女性を取り囲んでいるようだ。彼らが自民党関係者をつれてきて、なにかをうながしているように受け取れる。私服警察-2が話しているようだが、ずいぶん訛りが強い。
 「……で関係者の方ですから……、これは演説会であって、国会とかのように質問して応答する場所でないもんですから、自民党の方にアレしてください」
 女性は質問しようとしているのではなく、「総理、質問です。……」というプラカードを掲げようとしていただけであることは分かるはずだ。しかし、そのプラカードを掲げるのを許さない。だが警察が取り上げたら問題になると考えたのか、自民党関係者をつれてきたようだ。そしてプラカードを自民党関係者に渡せと言っているのである。自民党関係者の青ジャンパーの若い男が、困惑した表情でアップになっている。名刺らしいものを女性に渡しながら声をかける。
 「すみません、一旦、私間違いなくお預かりしますんで、あとでお返ししますので、よろしくお願いします」
 私服警察-2「ええ、すみませんが、ここはそういう場所じゃないんですよ」
 青いジャンパーの自民党関係者、頭を下げて「ご協力いただいてありがとうございます」
 私服警察-2「すみませんねえ、ほんとに」
 自民党関係者は去って、少々間があく。ビデオカメラは女性のバッグの中なのだろうか、撮影されている当人たちは気づいていないように思える。
 私服警察-2の顔がアップで写り手帳を取り出してメモをとる体勢に入っている。顔が写っているのはひとりだが、もうひとりの私服警察-1の手帳を持つ手も写っている。
 私服警察-2「反対するの分かるんですけど、どういったアレなんですか? どちらから来られたんですか」
 女性「私は、あの二本松市というところから来ています」
 私服警察-2「はい、二本松市、どちらですか」
 女性「反対しに来たんじゃなくて、聞きに来て、総理大臣がどういうふうに考えているのかなと思って……」
 私服警察-2「ああ、なるほどね。あの失礼ですが、お預かりした関係で、住所とお名前を自民党のほうにアレしておきますから教えていただけますか」
 女性「はい、二本松市(ピー音が入る)」
 私服警察-2「お名前は?」
 女性「佐々木るりと申します」(ピー音は入っていない)
 私服警察-2「るりさんはどう書くの?」
 女性「平仮名でるりです」
 私服警察-2「るりさんですね。えーと連絡先教えていただけますか?」
 女性「それはなんで?」
 私服警察-2「いや、先ほどプラカードを預かった関係で、もしも連絡つかなかったらお返しできないなぁーと思って」
 女性「私、いまもって、この場から出ていけばいいんですか?」
 私服警察-2「いや、話は聞いてもらっていいですからね、もちろん。ただ、そういう質問とかね、そういうアレじゃないですよー、そうそれだけですね。みなさん話を聞きに来てるものですから。総理がひとりひとりの質問に答えるという場ではないんですよ。それさえ理解してもらえれば、話を聞いてもらって結構ですから」
 女性「私、プラカードを持って、その帰ります」
 私服警察-2「先ほどのあの青いジャンパーを着た方が自民党の方ですから、言っていただければ、プラカードなりなんなり返していただけるようになりますから。
 私服警察-1「大丈夫ですから、大丈夫ですから」
 泣き声になった女性「そんなに大事なものでもないので……」
 私服警察-1「大丈夫ですから、大丈夫です」
 女性「あの、帰ります」

 以上が映像のすべてである。削除されないことを祈りたい。
 映像には演説のような声も入っているが、安倍総裁のものではないようだ。演説を聞いている人々とともに少なくない数の私服警察官の姿もみえる。私服警察官は聴衆とは逆向きなのでよく目立つ。
 この女性はプラカードを掲げて意思を示したかっただけなのだが、犯罪者のような扱いを受ける国になってしまっている。反対の意思表示のプラカードを没収する権限など警察にも自民党にもありはしないはずなのだが。
 私服警察官は、ここは質問する場じゃないと繰り返しているが、そんなことはない。タイミングさえ合えば、そして時間に余裕さえあれば、いくらでも質問できるはずなのだ。けっしてそこが質問を許されない場ということはない。させたくないだけのことであろう。
 映像の後半、私服警察官が住所、氏名を聞いているところなど、まさに職務質問のおきまりのパターンで、ぼくも経験がある。答える必要はないのだが、警察は答えないと面倒なことになりそうな気配をたっぷり匂わせてくる。
 ひとりでのこういった行動は勇気のある行動だとは思うが、よほど腹が据わっていないと警察のやり方には太刀打ちできるものではない。法律など無関係にやりたい放題にやられてしまうと考えたほうがよい。
 もし数十人のグループだったら、警察もこんな対応はできなかっただろうか。大勢の警察官で反対派グループを取り囲んで身動きできないようにするくらいで済んだであろうか。いや、警察が反対派を挑発して、ささいな抵抗を示したところで公務執行妨害で逮捕くらいのことはあるかもしれない。

 これに関連してネット上を調べてみると、今回の参院選公示少し前から同様の事例がいくつもあったことが分かった。なかには「ウソつかない。TPP断固反対。ブレない。──自民党」という、昨年の衆院選で自民党自身が掲げたプラカードを持っていて取り上げられた例があるのには呆れるしかない。その後自民党はTPP推進に舵を切っていて、そんなことを思い出してもらっては困るのである。
 10日付『東京新聞』で、この件に関して、人権派弁護士梓澤和幸氏が会見を開き、警視庁・福島県警、自民党に対して抗議の文書を送ったことが、小さいながらもようやく報じられた。プラカードは返却されていないという。
 異様なことが堂々とまかり通っている。権力側による規制があまりにも露骨すぎる。おそらく警察と自民党上層部は一体となって動いているのであろうが、参院選での自民党大勝後、こうした動きはもっと露骨になることが予測される。今後、われわれはそういう国で生きていくことになる。
 この映像の音声で、名前を消さずに出しているのが気になって調べてみたところ、彼女に関する情報はネット上にたくさんあるし、テレビに出演したり、講演会の動画も公開されている。
 さらに、You Tubeに今回の動画をアップロードしたのは女性本人であることが分かったし、この動画のあと、あまりにも悔しくて近くの駐車場でひとり泣いてしまったとインタビューで話している動画もあった。
 彼女の講演を書き起こしたものに目を通したが、原発事故直後の生々しい福島の惨状を伝えるものがあって、記憶の向こうに追いやってしまっていた当時の情況を思い起こした。講演を聞いた方のツイッターを転載させていただく。文字の色もそのままである。
 (以下、転載)
12日の爆発後に原発周辺の住民や病人を二本松に運んできた、カッコいいヘリを子供達は珍しがって見物に行き被ばくしてしまった。後でその小学校の砂を測定したら…90万ベクレル
お寺に停まってた車のガソリンをかき集め、やっと満タンになったワゴン車1台分に乗れるだけの女子ども。見送る男衆…。もぅ逢えないかと思った。
救援物資は福島を避け、他の被災地に行ってしまい、福島は汚染された為に誰も何も運んできてくれなかった。報道されてはいないが、沢山の人が餓死してしまいました。震災前は国や自治体が私たちの命を守ってくれると思っていた…
南相馬の同宗派のお寺では今年の1月からのお葬式が7件。そのうちの6件が自殺。4人は農家の方です。皆さん農薬を飲まれての自殺でした。(嗚咽の嵐)
便利な生活の為の代償があまりにも大きい。世界中で誰にも同じ思いをして欲しくない! 是非、皆で手を繋いでこの問題を考えましょう!
 (転載終わり)

 おそらくこの女性の生活は、どん底に突き落とされた2011年3月以降、目に見えて改善されることもなく、周囲の無言の圧力に押し込まれまいと必死に声をあげ続けているのであろうか。福島に暮らす人々の生の声から、無意識のうちに遠ざかっていた自分に気づかされた思いがする。
 講演のなかの福島の餓死者の件は、新聞・TVでの報道をみた記憶がない。調べてみると2011年5月、奇しくも自民党の森まさこ参議院議員が参議院法務委員会にて、南相馬市周辺で10人を超える餓死者が出ていることを、地元の医師から聞いた話として明らかにしていた。

 七夕の7日夜、TVのニュースで福島の母親たちが首相官邸前で抗議の声をあげている様子が流れた。そのなかに彼女が登場し、リポーターのインタビューに元気に応えている姿もあったが、名前の表示はなかった。   (2013/07)

<2013.7.13>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第10回:ぼくの日本国憲法メモ ②

 先の参院選は大方の予想のとおり自民党の大勝利に終わった。「いざ、憲法改正か?」というと、話はそれほど簡単ではない。単独過半数を確保できたわけでもなく、公明党や政策が近い政党へ気をつかいつつの動きとなる。
 そんなところへ麻生副総理の妄言が世界中を騒然とさせてしまい、改憲は当分先延ばしかと思いきや、安倍首相は内閣法制局長官に自分の意を汲む小松一郎前駐仏大使を据えて、改憲せずに憲法解釈を変えてしまおう(解釈改憲)という作戦に出たようだ。この手の打ち方に「敵ながらあっぱれ」と感心していてはいけない。われわれ国民はジーッと今後の動きを監視する必要がある。
 それにしても、麻生副総理の辻褄の合わない釈明の様子を見ていて、あまりのレベルの低さに情けないわ、悲しいわである。ひょっとすると、われわれ日本人はこういう人間が好きなのかもしれないとも思えてきた。

 ところで、憲法9条について調べてみようと思う。
 連載8回目の「ぼくの日本国憲法メモ①」にあげたベアテ・シロタ・ゴードン『1945年のクリスマス──日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝』(平岡磨紀子訳、柏書房、1995年)を読み始めたときに不思議に思ったことがあった。
 GHQの憲法草案作成の項は1946年2月4日から始まる。ベアテら民政局行政部の25人が局長のホイットニー准将から憲法草案作成の指示を受けるシーンである。25人を前にホイットニーが読み上げたマッカーサー・ノートの三原則の2項目目に、すでに「戦争放棄」は据えられているのである。
 2、国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに事故の安全を保持するための手段
  としての戦争をも、放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。
   日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
 (訳文は、高柳賢三、大友一郎、田中英夫編著『日本国憲法制定の過程Ⅰ』(有斐閣、1997年)による。)

 つまり「戦争放棄」の条項は、憲法草案作成過程で出てきたものではなく、それ以前に上層部で決まっていたことが分かる。
 1945年8月30日、マッカーサーはフィリピンのマニラから愛機バリタン号で沖縄経由で厚木基地に降り立つ。その機中で、ホイットニー准将やフェラーズ准将ら幕僚たちと日本改造計画の構想を練っていたことを、のちにベアテは聞いている。しかし、そこで出ているのは婦人参政権、政治犯の釈放、秘密警察の廃止、労働組合の奨励などで、「戦争放棄」は記されていない。

 前回同様、古関彰一『新憲法の誕生』(中公文庫、1995年)をおもに参考としてすすめる。
 GHQ内で憲法問題が懸案となってきたのは1946年1月中旬ごろのこと。そして2月1日、松本蒸治国務大臣を委員長とする日本政府の憲法問題調査委員会が検討していた改正試案のひとつを、『毎日新聞』がスクープしたことが発端となって、GHQは独自案の起草へと一気に動き始める。
 2月3日、マッカーサーはホイットニーに対し、GHQ内で憲法を起草する際の三原則(マッカーサー三原則、またはマッカーサー・ノート)を示しており、遅くともこの日には「戦争放棄」の方針は決定していたことになる。

 「戦争放棄」の概念が登場するのは、第一次世界大戦後の不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約、1928年)とされる。また初めて「戦争放棄」を定めた憲法はフィリピンの「1935年憲法」で、フィリピン国民軍の軍事顧問だったマッカーサーがそこにどのように関わったのか定かではない。古関は「マッカーサーがGHQ草案をつくるに際し、フィリピンの一九三五年憲法が頭にあったことは十分に考えられる」としている。
 ついでだが、1992年にフィリピン国内からの米軍基地撤退を実現させたのは、「1987年憲法」によるものである。

 GHQ民政局行政部ではケーディス大佐を中心に運営委員会をつくり、その下に立法、司法、地方行政、財政、行政権、人権、天皇・授権規定の各委員会と前文担当を置き、分担して起草にあたった。
 そこには「戦争放棄」を担当する委員会はなく、それは当初から他の条項から切り離された存在だったことが分かる。
 法学博士で弁護士のハッシー海軍中佐によって起草された前文のなかに「戦争放棄」が置かれたが、マッカーサーの指示で本文に移され、第1条とされた。のち日本国民の心情に敬意を表して「天皇」の項を第1章としたため、「第2章 戦争の放棄」とされた。
 このGHQ案が日本側に突きつけられたのが1946年2月13日である。19日の閣議で初めて閣僚に公開されたが、それまでその内容を知っていたのは幣原首相、松本国務大臣など4人にすぎない。松本の報告に対して、幣原首相、三土内相、岩田法相の3人が「受諾できぬ」としてその日の閣議では結論が出ず、21日、幣原はGHQ案起草の真意を聞くためにマッカーサーを訪ねる。
 古関前掲書の紹介する『芦田日記』によると、そこで幣原は戦争を放棄することの不安を訴えるが、「followers(あとに続く国々)が無くても日本は失う処はない」とマッカーサーは励ましている。これを受けて古関は「大筋において九条の発案者がマッカーサーであり、幣原でないことは疑う余地がないように思える」としている。
 日本の「戦争放棄」「非武装化」というマッカーサーの考えの根底には、(この時点で日本ではない)沖縄に空軍基地を置いて要塞化することで日本を守ることが可能ということがあったもので、けっして平和主義者だったわけではないと古関は断じている。こうしてみると、連載6回「沖縄を思う」で触れた昭和天皇の「沖縄メッセージ」は、まさにマッカーサーの軍事戦略に呼応するものだったということができる。(7月30日の朝刊に米軍横田基地へのオスプレイ配備計画が報じられたが、いま、日本全体が米軍基地化されようとしているのだろうか。)

 古関彰一は『憲法九条はなぜ制定されたか』(岩波ブックレット、2006年)において、憲法9条の発案者について次のような説を紹介している。
 1.幣原首相からの提言説……「羽室メモ」にある聞き書き、憲法学者深瀬忠一など。
 2.幣原首相とマッカーサーの合作説……憲法学者芦部信喜。
 3,吉田茂外相説(外交官白鳥敏夫の提言)……政治学者五百旗真[いおきべ まこと]。
 ほかに、『マッカーサー回想記 下』(朝日新聞社、1964年)での、1月24日の幣原首相とのふたりきりの会談の際に幣原から提案されたという記述のほか、吉田茂『回想十年 2』(新潮社、1957年)での、「マッカーサー元帥が先きに言い出したことのように思う。(中略)もちろん、そういう話が出て、二人が意気投合したということは、あったろうと思う」との吉田の印象が紹介されている。
 しかしながらマッカーサーは、日本側に勅語を作成させるなど、新憲法は昭和天皇と日本政府によって積極的につくられた体裁をつくっており、GHQのアメリカ政府への報告書でもそのように強調していることなどから、マッカーサーとしては自身を9条の発案者として書き残すことはできなかったと古関は推察しているようだ。

 以上のように、9条の発案者について古関彰一は一貫してマッカーサー説をとっているが、一方においては、晩年の幣原喜重郎から聴取した憲法調査会資料(1951年聴取、1964年記)というものが残されている。そこには幣原のほうから切り出したという自身が証言も収められている。これは古関が紹介している「羽室メモ」(1962年)とほぼ同一内容のものだが、古関はまったく取り上げていない。憲法史を専門に研究してきた法学者である古関がこの憲法調査会資料を知らないとは考えにくく、あえて触れないところをみると、信頼に足るものとは受け止めていないのであろうか。
 ベアテは、晩年のインタビューのなかで、当時日本側から提出されたさまざまなものから推測しても、「戦争放棄」などのアイディアが日本側から出たとは考えられないと答えている。
 一般的には幣原説をとる人が多いようだが、目を通せる資料も本にも限界のあるぼくに手に負えるテーマではないことは承知している。ただ、いまのところぼくの印象としてはマッカーサーが発案者だろうと思っている。

 1946年5月16日、第90回帝国議会が招集され、GHQ案を叩き台にした新たな政府案は、7月23日からの修正案作成のための小委員会へと送られた。ここでいわゆる「芦田修正」が施される(のちの委員会案。変更箇所に下線を施す)。
(新政府案)①国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解
 決の手段としては、永久にこれを放棄する。
  ②陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。
(委員会案)①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、
 武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  ②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを
 認めない。

 「前項の目的を達するため」を挿入した意図について、委員長だった芦田均はのちになって、自衛戦争もしくは自衛のための戦力を否認するものではないとして、この考え方は当初より一貫していたと述べているが、当初の考えはそうではなかったことが明らかになっている。
 委員会案がワシントンの極東委員会へ送られると、この変更について不信感が表明される。
 複数の国から文民条項の欠落が指摘されたほか、中国(中華民国政府)からは、2項が、1項で特定された目的以外の目的で陸海空軍の保持を実質的に許すという解釈を認めていることで、自衛という口実で軍隊を持つ可能性があることが指摘された。オーストラリアの対日不信も大きく、将来日本は9条を改正して軍隊を保持することになると信じており、その際は現役武官が陸・海軍大臣に就くことがないように「文民条項」が有効だと指摘した。
 その結果、66条2項に「内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、文民でなければならない」と入れられ、9条はそのまま認められた。
 ここで中国が芦田修正の危うさを即座に見抜いたことに驚くとともに、現在の日本の政治情勢は、まさに67年前に極東委員会で危惧された方向へとすすみつつあるように思える。

 正直なところ、この稿を書き始めたときは、厄介になりそうな憲法9条の解釈については触れずに済まそうと思った。しかし、ここまできたからにはせめて日本政府の解釈くらいはのぞいてみようとも考え直したが、これもなかなか厄介だ。厳密さをお望みの方は、衆議院のHPに2012年5月、憲法審査事務局がまとめたものがあるので、ご覧いただきたい。
 やはり問題となるのは自衛隊の存在である。
 樋口陽一・井上ひさし『日本国憲法を読み直す』(講談社文庫、1997年)によれば、現行憲法には前文をふくめて「軍隊」のことは一字一句出てこないという。これは何を意味するかといえば、単純に「軍隊」をもってはいけないということだという。憲法は自衛力、防衛力までは禁じていない、また自衛隊は「自衛力」であって「戦力」ではないという政府解釈も、解釈が正しいかどうかではなく、われわれが選挙でそういう政府を支持してきた結果にすぎないという。
 アメリカが要求する再軍備を、憲法を盾に拒否できた政治家がいたかどうか分からないが、国民がそういう政治家を選んでいたら自衛隊は存在しなかったかもしれず、こんな厄介な解釈を迫られる状況にはおちいっていなかったはずだ。
 しかしながら、相変わらず多くの国民は戦後政治のほとんどを担ってきた自民党を支持し、参院選後は衆参のねじれが解消されたと喜んでいる。その安倍自民党政権は「集団的自衛権」行使に向けて憲法解釈を変更しようとさえしている。
 安倍首相の主張する「集団的自衛権」は、一般にアメリカの軍事戦略に沿ったものといわれるが、それとは異なる国連の平和維持活動下での「集団的自衛権」容認を唱えるのが生活の党の小沢一郎である。小沢は、国連の平和維持活動下であれば実力行使を含むあらゆる手段を通じてという主張に沿って、憲法改正ではなく「加憲」を目指すとしている。
 じつはこの問題があるから憲法解釈には踏み込みたくなかった。自衛隊が米軍とともに海外での戦闘に加わるべきか、それとも国連平和維持軍として海外での戦闘に加わるべきか以前に、自衛隊を海外に出してよかったのかという問題に、ぼく自身確信をもって答えられないでいるのだ。
 もたもたしている間に現実ははるか先へと進んでいて、東アフリカジブチにはすでに自衛隊の基地が建設されている。
 戦後六十数年かけて大きく育ててしまった自衛隊をどのように扱うべきか、憲法とからめつつ考えなければならない課題である。平和維持のために、必ずしも大きな軍備が必要とは思えないのだが。
 最近、そのようなテーマの本がいくつか刊行されているので、個人的に気になったものをあげておきたい。
 ・天木直人『さらば日米同盟』(講談社、2010年)
 ・ 松竹伸幸『憲法九条の軍事戦略』(平凡社新書、2013年)
 ・ 柳澤協二・半田滋・屋良朝博『改憲と国防』(旬報社、2013年)
                                      (2013/08)

<2013.8.24>

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