いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜 工藤茂

第51回:ゲームは終わり

 2017年は、同僚たちと作業場で仕事をしながら迎えた。生まれて初めての体験のように思う。昨年12月上旬からほぼ1カ月間、日本郵便株式会社の店舗、某郵便局へ夜勤の短期アルバイトとして通った。
 金[かね]に関しては常に漠とした不安があって、それは短期アルバイト程度で解消できるはずのものでもなく、それでも幾許かは得たいというのが正直な気持ちだ。さらに「労働」の現場に身をおき、はたして自分はまだそういうところで通用するものかどうか試してみたいという気持ちもあった。そこで普通なら避ける夜勤を、あえて選んでみたのである。
 ぼくと同時に採用になったのはふたりで、1週間後にひとりが加わり合計4人となった。すべて男である。小太りなAは25歳くらいであろうか、10日ほどで顔を出さなくなった。Bは40歳くらいに見えたが、髭が濃く頭頂部の髪の毛がだいぶ薄い。Cは50〜60代と思われるが、頭頂部はすでに禿げ上がっていて、顔色がよくなかった。ぼくはまぎれもなく60代もほぼ半ば。

 ぼくの胸の名札には「郵便部 ゆうパック担当」と記されていた。郵便物や小包、ゆうパックの集配業務を扱うのが郵便部だが、ぼくらが関わるのはそれらの配達前の仕分け(区分け)である。広い郵便局のなかでも夜勤があるのは、その仕分けと夜間窓口だけのようだった。スペースの広い配達の部署はガランとして誰もいない。
 夜勤の作業現場は男だけの世界である。正社員、長期アルバイト、短期アルバイトがいるが、正社員と長期アルバイトは、ぼくが見たところほとんど区別がつかない。おそらく夜勤に出ている正社員は数人で、深夜作業は15人ほどの長期アルバイトが中心となっている。スキルに応じて時給も上がっていくらしいが、おもに30代で構成される彼らの機動力には圧倒されたし、真面目によく動く。
 ぼくらの勤務時間は夜10時〜翌朝9時までで、およそ3時間の休憩があるが、そのうちの2時間は給料にふくまれない。時給は950円。夜勤でこの時給はけっして条件がいいとはいえないが、まったくの素人ゆえ受け入れるしかない。アルバイトの終わる1月上旬までの勤務表があらかじめ郵送されてきたが、2日夜勤が続くと、2日あるいは1日の休日が設けられている。

 郵便物があふれる広い工場のような作業場で、大型封筒用の棚の1区画の前に立って、大型封筒の仕分け作業に取りかかる。封筒の宛先を見ながら、その町名や番地で仕切られた棚に封筒を投げ込んでいく。棚の並びを記憶しないことには作業効率は上がらない。同じ町でも番地によっては別の町の棚と一緒になっているものもある。わかりにくいが、配達区域の関係上そうなっているもので、局内にあるすべての棚は同じ並びでつくられている。
 初めてのぼくらは、棚を確認しながら恐る恐る封筒を入れていく。どこに入れるべきか迷っていると、隣で作業をしている長期アルバイトが「どこですか?」と声をかけてくれる。
 郵便部では、こんな効率の悪いぼくらでも人手が欲しい。それほど郵便物があふれていて、1分でも早く、1通でも多く処理しなければならない。郵便部は郵便物をスムーズに流すことが仕事だ。滞らせてはいけない。ぼくらはそのために募られたのである。
 先に長期アルバイトの機動力について触れた。手慣れた彼らの作業を見ていると、棚を見ることもなしに封筒を次々に放り込んでいく。棚の並びを身体が覚えている。身体の動きもしなやかである。
 郵便物がぎっしり詰まった大きな金属製のパレットがいくつも並ぶ。素人のぼくらは、それらを処理するのにいったいいつまでかかるのかと漠然と思っていた。しかしながら5、6人ほどの彼らが根を詰めて集中的に作業を続けると、1時間ほどですべて片付いてしまうのだった。そんな光景を何度か見たが、感動的ですらある。
 これらの作業はこの局管内に配達される大型封筒の仕分けで、すべて手作業である。ほかに、この管内に配達されるはずだったが宛先不案内のため管外の送り主に返送されるもの、宛先不安内で管外から管内在住の差出人に返送されてきたものなど、これらは還付郵便と呼ばれ、葉書や小型・大型封筒とも手作業で仕分けられる。
 通常の葉書や小型封筒は機械で仕分けられるが、それはなかなかよくできた機械である。大きな機械のなかを郵便物がとてつもないスピードで飛び回り、収まるべきポケットにストンと収まるさまには思わず見とれてしまう。

 某郵便局では、ゆうパックの仕分けは別館で行われる。夜間二度、三度と大型トラックがやって来て、荷物が詰め込まれた大きなパレットをいくつもガラガラ、ガチャンと大きな音を立てて降ろしていく。ぼくらは荷物が到着すると寒空のなかを別館に移動し、ゆうパックの仕分けに取りかかる。
 正社員と長期アルバイトの3人で、パレットから当日配達予定の荷物を寄り分け、作業台の上をぼくらに押し渡す。ぼくらは荷物を両手で抱え込み、町名や番地で区分けされたパレットに積んでいく。これもパレットの位置や並びを把握していないと効率が悪い。
 小さく薄っぺらなものから大きく重い荷物までさまざまである。30キロの米袋、ミネラルウォーターや1升瓶がセット詰めされた箱を何度も運んだ。寒いなかでも汗を流すくらいの作業になる。遅れがちになり作業台に荷物があふれだすと、即座に長期アルバイトが動いてくれる。
 伝票に印字された文字には異常に小さなものがある。1と7の判別しにくいフォントは、老眼のすすんだぼくでは住所の読み取りに苦心する。仕分けミスも起こりがちである。毎朝5時頃になると契約ドライバーがやって来て、自分の配達区域のパレットから荷物を取り出し、ひとつひとつ住所を確認しながら自分の車に積み込んでいく。
 郵便部の昼間の時間帯には3時間単位のアルバイトがたくさん出入りしているが、早いひとは朝6時にやって来て、郵便物やゆうパックの仕分けの作業につく。主婦が多いが、長期間やっているひとたちなので、作業には手慣れていて早い。夜勤の長期アルバイト同様、頼りになるひとたちである。

 働きはじめて間もなくの12月14日付『東京新聞』の連載コラムで、斎藤美奈子氏が「ブラック企業大賞」について書いていた。驚いたことに、日本郵便が同賞にノミネートされているという。同社のノミネートは上司のパワーハラスメントがらみの自殺が原因で、同社ではほかにも同様の自殺が複数件起きているようだ。
 同じ社ではあるが、ぼくが通う某郵便局は「ブラック」とは無縁の心優しい職場だった。そもそもパワハラは上司次第のものであろう。ぼくにとっては顔を合わせる職員すべてが上司になるが、そこにはひとを責めるという空気はまったくなかった。ミスはもちろんあっただろうが、そんなミスは当たり前といった様子で、ミスを犯した当人を捜し出すようなこともなかった。ただ、夜勤そのものが「ブラック」というのであれば、たしかに「ブラック」にはちがいないだろう。
 あふれ返っている郵便物や荷物のなかでも、大型封筒のほとんどは企業のDMや通信販売のカタログ類である。これら一切の荷物や郵便物を1分でも早く流し、届けるために郵便部は24時間動き続けている。もしDMや通信販売のカタログ類が完全にインターネットにかわり、荷物の配達にもっと余裕がもてるのであれば、夜勤など不要になるのではなかろうか。とくに宅配便会社がごく普通に行っている翌日配達や配達時間指定はサービス過剰のようにも思える。
 作業中はずっと立ったままだが、ジョギングをやっていたせいか足腰に疲労を覚えることはなかった。昼夜逆転の生活にも、看護師さんたちのインターネット上の書き込みを参考にどうにか対応できた。世間には夜勤が必要とされる仕事などいくつもあって、「郵便局の夜勤など、いちばん楽なほうだ」という書き込みも読んだ。

 作業上必要な会話をのぞけば、会話は多くはない。それでも本館から別館への移動や作業の合間など、Bとは冗談のような会話も交わすようになったが、Cは極端に無口で、声をかけても反応がないこともあったせいか、声をかける機会も少なくなった。
 Bはひとつ習うとふたつ覚えるようなところがあって、ぼくと比べると仕事のセンスは上をいっていた。そんな不器用なぼくでも、終盤に近づく頃にはほどほどスムーズに作業をこなせるようになっていったように思う。
 次第に作業に慣れていくことが、困難な課題をひとつひとつクリアしていくゲームのように感じられ、そこに面白味さえ見出すようになっていた。それでもいつ挫折してもおかしくないという気持ちがどこかにあって、それはひとえに出勤時の嫌な気分にあった。夕食を済ませて一段落したのち、仕事のために外に出るという嫌な気分には、いつまでたっても慣れることがなかった。外に出てしまえばどうってこともないことなのだが、この嫌な気分はアルバイトが終わるまでつきまとった。
 また出勤日の晩酌は控えめにしたが、これも辛かった。逆に朝帰宅してから食べるご飯と味噌汁、ぬか漬けはじつに美味かった。初めて感じるような旨味さえ覚えた。味覚が敏感になっていたのだろうか。ついでになるが、妻につくってもらったおにぎりを1個、休憩時間に食べていたが、これも格別で、とくに梅干しが美味かった。

 1月上旬、最後の勤務が明けた朝、BやCとともに作業場を回り、お世話になった長期アルバイトや正社員に挨拶した。「誰かひとり残ってくれないかな?」とか「夏頃に忙しくなるから、また来てください」という声もあった。
 その後ロッカー室へ行ったところ、無精髭だらけのBが「工藤さん! 終わりましたね!」と両手を伸ばして近寄ってくるではないか。Bはぼくよりもひと回り以上も若いとはいえ、夜勤には参っていたようだ。眠り込んでしまって休憩が終わったことにも気づかず、作業場に出てこないBを叩き起こしに戻ったこともあった。それだけに最後までやり遂げたことが心から嬉しかったようだ。
 ぼくは戸惑いながらも片手で握手に応えた。Bはぼくの名前を覚えてくれたが、ぼくは彼の名前を覚えることもできなかった。さらにそばにいた無口なCが、「どうも、ありがとうございました」とはっきりとした口調で言った。初めて耳にしたきちんとした言葉だった。彼も嬉しそうに笑みを浮かべていた。
 Bは「夏になったら、またここで会いましょうか」とも言ったが、すぐさま否定した。どうなるかわからない今後の生活を思い浮かべたにちがいない。さあ、これでお別れ。ゲームは終わりだ。
 勘違いしてはいけない。これは1カ月の短期アルバイトだからやり遂げられただけのこと。ぼくには夜勤の長期アルバイトは務まらない。これが実感である。あの勤勉な長期アルバイトの若者たちが気にかかる。どこかでレールを外してしまったのであろう。「40まではこの仕事できないよな」という彼らの会話も耳にしたことがあった。 (2017/01)



<2017.1.25>

いま、思うこと

第1〜10回LinkIcon 
 第1回:反原発メモ
 第2回:壊れゆくもの
 第3回:おしりの気持ち。
 第4回:ミスター・ボージャングル Mr.Bojangles
 第5回:病、そして生きること
 第6回:沖縄を思う
 第7回:原発ゼロは可能か?
 第8回:ぼくの日本国憲法メモ ①
 第9回:2013年7月4日、JR福島駅駅前広場にて
 第10回:ぼくの日本国憲法メモ ②



第11〜20回LinkIcon
 第11回:福島第一原発、高濃度汚染水流出をめぐって
 第12回:黎明期の近代オリンピック
 第13回:お沖縄県国頭郡東村高江
 第14回:戦争のつくりかた
 第15回:靖国参拝をめぐって
 第16回:東京都知事選挙、脱原発派の分裂
 第17回:沖縄の闘い

 第18回:あの日から3年過ぎて
 第19回:東京は本当に安全か?
 第20回:奮闘する名護市長

第21〜30回
LinkIcon
 第21回:民主主義が生きる小さな町
 第22回:書き換えられる歴史
 第23回:「ねじれ」解消の果てに
 第24回:琉球処分・沖縄戦再び
 第25回:鎮霊社のこと
 第26回:辺野古、その後
 第27回:あの「トモダチ」は、いま
 第28回:翁長知事、承認撤回宣言を!
 第29回:「みっともない憲法」を守る
 第30回:沖縄よどこへ行く


第31〜40回LinkIcon
 第31回:生涯一裁判官
 第32回:IAEA最終報告書
 第33回:安倍政権と言論の自由
 第34回:戦後70年全国調査に思う
 第35回:世界は見ている──日本の歩む道
 第36回:自己決定権? 先住民族?
 第37回:イヤな動き
 第38回:外務省沖縄出張事務所と沖縄大使
 第39回:原発の行方
 第40回:戦争反対のひと


第41回:寺離れLinkIcon 


第42回:もうひとつの「日本死ね!」LinkIcon 


第43回:表現の自由、国連特別報告者の公式訪問LinkIcon 


第44回G7とオバマ大統領の広島訪問の陰でLinkIcon


第45回:バーニー・サンダース氏の闘いLinkIcon 

  

第46回:『帰ってきたヒトラー』LinkIcon  


第47回:沖縄の抵抗は、まだつづくLinkIcon 


第48回:怖いものなしの安倍政権LinkIcon


第49回:権力に狙われたふたりLinkIcon


第50回:入れ替えられた9条の提案者LinkIcon 


第51回:ゲームは終わりLinkIcon 


第52回:原発事故の教訓LinkIcon


第53回:まだ続く沖縄の闘いLinkIcon

第54回:那須岳の雪崩事故についてLinkIcon

第55回:沖縄の平和主義LinkIcon

第56回:国連から心配される日本LinkIcon

第57回:人権と司法LinkIcon

第58回:朝鮮学校をめぐってLinkIcon

第59回:沖縄とニッポンLinkIcon

第60回:衆議院議員選挙の陰でLinkIcon

第61回:幻想としての核LinkIcon

工藤茂(くどう・しげる)

1952年秋田県生まれ。
フリーランス編集者。
15歳より50歳ごろまで、山登りに親しむ。ときおりインターネットサイト「三好まき子の山の文庫」に執筆しているが、このところサボり気味。

工藤茂さんの<ある日の「山日記」から>が読めます。LinkIcon