いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜 工藤茂

第54回:那須岳の雪崩事故について

 この3月27日、栃木県の那須温泉ファミリースキー場で起きた雪崩事故で、教員・高校生合わせて8人が死亡したほか、40人が重軽傷を負った。栃木県高校体育連盟登山専門部主催の春山安全登山講習会の行動中の事故である。栃木県警は業務上過失致死傷容疑で捜査を開始し、講習会の責任者を務めていた県高体連登山専門部委員長の教員(大田原高校山岳部顧問)の勤務先にも家宅捜索を行った。刑事責任が問われそうな動きである。
 事故の現場は、奇しくも島燈社所在地より北へ直線距離で15キロほどの那須岳中腹だった。多くの被害者はドクターヘリや救急車で搬送され、地元の病院も大変な混乱だったという。
雪崩事故現場を望む位置に設けられた慰霊所
 1964年1月、秋田県の大館鳳鳴[おおだてほうめい]高校山岳部が、青森県の岩木山で4人が死亡するという遭難事故があった。吹雪で方角を失い5日間山中をさまよい、生還したのは5人のうちひとりのみだった。ぼくが同じ秋田県にある高校の山岳部に入ったのはその4年後だが、入部に際してはその遭難の顛末を先輩から詳しく教えられた。また15年ほど前の3月、知人が上越の山へひとりで出かけたきり、戻ることはなかった。何度も一緒に山へ出かけた知人だが、ぼくが山から遠ざかるようになった直後の出来事だった。
 ぼく自身もアイスバーンの斜面で滑落しかかったことがあるが、雪山での遭難事故はけっして縁遠いものではない。ただ今回の雪崩事故は講習会という性格上、これらの遭難とは明らかに異なるものだ。それにしても同時に8人死亡というのは、あまりにも痛ましい。亡くなった方々のご冥福をお祈りしたいと思う。
01 那須岳全景(日本雪崩ネットワークのホームページより転載) 
 非営利団体の日本雪崩ネットワークが、事故翌日に現場調査を行いホームページ上に非常にわかりやすい写真を載せているので、転載させていただいた(写真01)。赤点線が雪崩の流下方向。赤丸がおよその被災位置。救助に関わった方の話によると、現場へは緑点線のラインを登ったとのこと。青点線は同じ27日に発生した別の雪崩の流下方向である。
 当初テレビでニュースが流れたときはスキー場での雪崩と聞こえたが、正確には樹林帯の斜面を突き抜けた尾根上だった。スキー場のゲレンデでも雪崩は起こることはあるとは思っていたが、ゲレンデのまったくの外での事故だった。
 大田原高校山岳部顧問を20年以上も務めてきたという講習会責任者の記者会見をテレビで観たが、8人も亡くなっていることもあってか、記者からの厳しすぎる質問には思わず同情してしまった。新聞には「登山ベテラン 経験過信?」「現場は雪崩危険箇所」の見出しが躍り、検証記事にも大きく割いていた。
 とりあえず一般的な話から始めたい。雪山を登っていると、雪崩が起きそうな現場に遭遇することは頻繁にある。厳冬期が過ぎて雪が緩んできた頃、つまり3月中旬から5月中旬までならどこででも起きると思ったほうがいい。
 行動中に立ち止まり、「あそこは崩れるぞ、近付くな」と緊張した声が飛ぶ。ほかにルートがとれるならいいのだが、ほかにルートがなければ、「あそこはヤバいな、でも慎重に行くぞ」ということもある。斜面を横切るときなど、「あそこは崩れそうだから、息を止めてそっと通過しろ」という会話もよくある。
 そういった危険な箇所を避けてばかりいては、山など登れなくなってしまう。だから多少の危険は承知のうえで登る。これが実態である。それでもキャリアの長い登山者の多くは、大きな雪崩に遭遇することもなく数十年間も山を登りつづけてきている。記者会見で対応していた責任者もおそらくそうだろうと思われる。
 テレビで紹介されていた山全体の写真や今回のルートを観て、コメンテーターのひとりが「もしかしたら、頂上へ行くつもりだったのでは……」と話していた。緑点線のことだが、頂上を目指すのなら確かに普通にとるルートである。荒天のため頂上を断念してラッセル訓練に切り替えたというが、天候が少しでも好転したら頂上を目指そうという気持ちが、引率していた教員たちには共有のものとしてあったのではないかと思う。
 県内の高校山岳部が一堂に会することなど年に数回のことで、おそらく今回はこのシーズン一度きりの機会である。できることなら頂上まで行かせたい。そういった気持ちでの行動中に起きた雪崩事故ではないだろうか。
 雪崩が流れた斜面(赤の点線)を見て、正直のところぼくには雪崩は予測できないと思えた。通常の3月中旬以降であれば雪崩が起きるほどの斜面とは思えなかった。テレビに登場した専門家は「典型的な雪崩地形ですね」と言っていたが、だからといって必ず雪崩が起きるわけではない。
 今回は、前日から30センチ以上も新雪が積もっていたようだが、このような表層雪崩は判断しにくい。登りながら雪の状態を見極めていくしかないのだ。同日に起きたというもう一方の雪崩(青の点線)とは明らかに異なるだろう。

 さて今回の事故は、県高体連登山専門部主催の講習会で起きたものだ。主催者側は教員であり、受講者は生徒である。受講者は主催者側の安全管理のもと、指示に従って行動することになる。そこで死亡事故が起きれば主催者側の責任が問われる。ある程度厳しい追及もやむを得ないものなのかもしれない。
 新聞でもいろいろ書かれていたが、主催者側の落ち度も少なくないだろう。荒天のなかでラッセル訓練を行ったこと、事故の発生を連絡するよりも救出を優先したこと、責任者が無線機から離れていたこと、教員同士で携帯電話の番号を交換していなかったこと、雪崩に巻き込まれた場合の対処の仕方を教えていなかったこと、国有林への入林許可申請を怠っていたこと、ビーコン(電波受発信器)を携帯していなかったことなどが指摘されているようだ。
 これらのなかには、とくに問題とはいえない事柄も含まれているのだが、ぼくは亡くなった大田原高校の教員のことが気になった。
栃木県立大田原高等学校
 その教員について、父親が「雪山登山の初心者だった」と話している。その教員が山岳部顧問だったのかどうか、報道が分かれていて正確なところがわからない。山のベテランの顧問(登山専門部委員長、今回の責任者)に誘われて新米顧問として修行中だったのかもしれない。ラッセル訓練の際、その教員が付き添っていた大田原高校が先頭で行動していたのは理解に苦しむ。先頭パーティーは状況に応じてさまざまな判断を迫られる立場だ。今回の場合、経験豊かな教員であれば雪の感触から異変を感じ取れたかもしれなかった。
 また、当日は登山行動を中止するくらい吹雪いていたという。休憩をとるのであれば尾根上ではなく、風を防ぎやすい樹林のなかでとるほうが自然ではなかろうか。樹林のなかであれば、雪崩に襲われても被害は軽く済んだ可能性がある。これは何人かの方からの指摘もあった。
 このように先頭パーティーという重要な位置に、経験のない教員をおいたのは大きな誤りのように思えてならない。

 この事故の影響で、高校山岳部の活動が萎縮してしまうことをぼくは危惧している。まず、高校山岳部の冬山完全禁止になるのは困る。ぼくの高校山岳部時代も原則冬山禁止だったが、指導者がいる場合は許されていて、ぼくらは顧問のほかOBの応援を得て積極的に登っていた。
 山岳部を休部とする学校が出るかもしれない。さらに子を山岳部から退部させようとする親、山岳部の顧問を辞退する教員も出てくるかもしれない。
 山岳部の顧問というのは、山の経験の豊かな教員がいない場合は経験のない教員が任されることがある。そういった顧問のなかから辞表を出す教員が出てくる可能性がある。とくに今回の記者会見の厳しい追及の様子を観ると、そう思っても無理はないだろう。
 山登りを愉しいと感じるのはひとそれぞれであろうが、山登りの愉しさと出会う機会を若者から奪わないでもらいたい。山登りは文化的な背景をもつ奥深い贅沢な遊びであろう。学校関係者には慎重な判断をお願いしたいところである。
 山登りは自然相手としているため、判断の誤りは起こりうる。記者会見の席上、責任者は「絶対安全にできると判断した」と述べているが、基本的に山のなかで「絶対安全」はない。「遊び」でありながら、常に命を失う可能性が潜んでいるものである。スキー場近くの樹林帯ということで、まだ山ではないという油断があったことは否めないだろう。ぼく個人としても、亡くなった方々には申し訳ないが、運が悪かったと言いたい気持ちが少なからずある。
 栃木県教育委員会の第三者委員会による検証委員会が立ち上げられていて、6月までに原因究明につとめるようだ。 (2017/04)

<2017.4.27>

いま、思うこと

第1〜10回LinkIcon 
 第1回:反原発メモ
 第2回:壊れゆくもの
 第3回:おしりの気持ち。
 第4回:ミスター・ボージャングル Mr.Bojangles
 第5回:病、そして生きること
 第6回:沖縄を思う
 第7回:原発ゼロは可能か?
 第8回:ぼくの日本国憲法メモ ①
 第9回:2013年7月4日、JR福島駅駅前広場にて
 第10回:ぼくの日本国憲法メモ ②



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 第11回:福島第一原発、高濃度汚染水流出をめぐって
 第12回:黎明期の近代オリンピック
 第13回:お沖縄県国頭郡東村高江
 第14回:戦争のつくりかた
 第15回:靖国参拝をめぐって
 第16回:東京都知事選挙、脱原発派の分裂
 第17回:沖縄の闘い

 第18回:あの日から3年過ぎて
 第19回:東京は本当に安全か?
 第20回:奮闘する名護市長

第21〜30回
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 第22回:書き換えられる歴史
 第23回:「ねじれ」解消の果てに
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 第26回:辺野古、その後
 第27回:あの「トモダチ」は、いま
 第28回:翁長知事、承認撤回宣言を!
 第29回:「みっともない憲法」を守る
 第30回:沖縄よどこへ行く


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 第39回:原発の行方
 第40回:戦争反対のひと


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工藤茂(くどう・しげる)

1952年秋田県生まれ。
フリーランス編集者。
15歳より50歳ごろまで、山登りに親しむ。ときおりインターネットサイト「三好まき子の山の文庫」に執筆しているが、このところサボり気味。

工藤茂さんの<ある日の「山日記」から>が読めます。LinkIcon