本と音楽の未来を考える

いま、思うこと 第51〜60回 of 島燈社(TOTOSHA)

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

工藤茂(くどう・しげる)/1952年秋田県生まれ。フリーランス編集者。15歳より50歳ごろまで、山登りに親しむ。ときおりインターネットサイト「三好まき子の山の文庫」に執筆しているが、このところサボり気味。

第51回:ゲームは終わり

 2017年は、同僚たちと作業場で仕事をしながら迎えた。生まれて初めての体験のように思う。昨年12月上旬からほぼ1カ月間、日本郵便株式会社の店舗、某郵便局へ夜勤の短期アルバイトとして通った。
 金[かね]に関しては常に漠とした不安があって、それは短期アルバイト程度で解消できるはずのものでもなく、それでも幾許かは得たいというのが正直な気持ちだ。さらに「労働」の現場に身をおき、はたして自分はまだそういうところで通用するものかどうか試してみたいという気持ちもあった。そこで普通なら避ける夜勤を、あえて選んでみたのである。
 ぼくと同時に採用になったのはふたりで、1週間後にひとりが加わり合計4人となった。すべて男である。小太りなAは25歳くらいであろうか、10日ほどで顔を出さなくなった。Bは40歳くらいに見えたが、髭が濃く頭頂部の髪の毛がだいぶ薄い。Cは50〜60代と思われるが、頭頂部はすでに禿げ上がっていて、顔色がよくなかった。ぼくはまぎれもなく60代もほぼ半ば。

 ぼくの胸の名札には「郵便部 ゆうパック担当」と記されていた。郵便物や小包、ゆうパックの集配業務を扱うのが郵便部だが、ぼくらが関わるのはそれらの配達前の仕分け(区分け)である。広い郵便局のなかでも夜勤があるのは、その仕分けと夜間窓口だけのようだった。スペースの広い配達の部署はガランとして誰もいない。
 夜勤の作業現場は男だけの世界である。正社員、長期アルバイト、短期アルバイトがいるが、正社員と長期アルバイトは、ぼくが見たところほとんど区別がつかない。おそらく夜勤に出ている正社員は数人で、深夜作業は15人ほどの長期アルバイトが中心となっている。スキルに応じて時給も上がっていくらしいが、おもに30代で構成される彼らの機動力には圧倒されたし、真面目によく動く。
 ぼくらの勤務時間は夜10時〜翌朝9時までで、およそ3時間の休憩があるが、そのうちの2時間は給料にふくまれない。時給は950円。夜勤でこの時給はけっして条件がいいとはいえないが、まったくの素人ゆえ受け入れるしかない。アルバイトの終わる1月上旬までの勤務表があらかじめ郵送されてきたが、2日夜勤が続くと、2日あるいは1日の休日が設けられている。

 郵便物があふれる広い工場のような作業場で、大型封筒用の棚の1区画の前に立って、大型封筒の仕分け作業に取りかかる。封筒の宛先を見ながら、その町名や番地で仕切られた棚に封筒を投げ込んでいく。棚の並びを記憶しないことには作業効率は上がらない。同じ町でも番地によっては別の町の棚と一緒になっているものもある。わかりにくいが、配達区域の関係上そうなっているもので、局内にあるすべての棚は同じ並びでつくられている。
 初めてのぼくらは、棚を確認しながら恐る恐る封筒を入れていく。どこに入れるべきか迷っていると、隣で作業をしている長期アルバイトが「どこですか?」と声をかけてくれる。
 郵便部では、こんな効率の悪いぼくらでも人手が欲しい。それほど郵便物があふれていて、1分でも早く、1通でも多く処理しなければならない。郵便部は郵便物をスムーズに流すことが仕事だ。滞らせてはいけない。ぼくらはそのために募られたのである。
 先に長期アルバイトの機動力について触れた。手慣れた彼らの作業を見ていると、棚を見ることもなしに封筒を次々に放り込んでいく。棚の並びを身体が覚えている。身体の動きもしなやかである。
 郵便物がぎっしり詰まった大きな金属製のパレットがいくつも並ぶ。素人のぼくらは、それらを処理するのにいったいいつまでかかるのかと漠然と思っていた。しかしながら5、6人ほどの彼らが根を詰めて集中的に作業を続けると、1時間ほどですべて片付いてしまうのだった。そんな光景を何度か見たが、感動的ですらある。
 これらの作業はこの局管内に配達される大型封筒の仕分けで、すべて手作業である。ほかに、この管内に配達されるはずだったが宛先不案内のため管外の送り主に返送されるもの、宛先不安内で管外から管内在住の差出人に返送されてきたものなど、これらは還付郵便と呼ばれ、葉書や小型・大型封筒とも手作業で仕分けられる。
 通常の葉書や小型封筒は機械で仕分けられるが、それはなかなかよくできた機械である。大きな機械のなかを郵便物がとてつもないスピードで飛び回り、収まるべきポケットにストンと収まるさまには思わず見とれてしまう。

 某郵便局では、ゆうパックの仕分けは別館で行われる。夜間二度、三度と大型トラックがやって来て、荷物が詰め込まれた大きなパレットをいくつもガラガラ、ガチャンと大きな音を立てて降ろしていく。ぼくらは荷物が到着すると寒空のなかを別館に移動し、ゆうパックの仕分けに取りかかる。
 正社員と長期アルバイトの3人で、パレットから当日配達予定の荷物を寄り分け、作業台の上をぼくらに押し渡す。ぼくらは荷物を両手で抱え込み、町名や番地で区分けされたパレットに積んでいく。これもパレットの位置や並びを把握していないと効率が悪い。
 小さく薄っぺらなものから大きく重い荷物までさまざまである。30キロの米袋、ミネラルウォーターや1升瓶がセット詰めされた箱を何度も運んだ。寒いなかでも汗を流すくらいの作業になる。遅れがちになり作業台に荷物があふれだすと、即座に長期アルバイトが動いてくれる。
 伝票に印字された文字には異常に小さなものがある。1と7の判別しにくいフォントは、老眼のすすんだぼくでは住所の読み取りに苦心する。仕分けミスも起こりがちである。毎朝5時頃になると契約ドライバーがやって来て、自分の配達区域のパレットから荷物を取り出し、ひとつひとつ住所を確認しながら自分の車に積み込んでいく。
 郵便部の昼間の時間帯には3時間単位のアルバイトがたくさん出入りしているが、早いひとは朝6時にやって来て、郵便物やゆうパックの仕分けの作業につく。主婦が多いが、長期間やっているひとたちなので、作業には手慣れていて早い。夜勤の長期アルバイト同様、頼りになるひとたちである。

 働きはじめて間もなくの12月14日付『東京新聞』の連載コラムで、斎藤美奈子氏が「ブラック企業大賞」について書いていた。驚いたことに、日本郵便が同賞にノミネートされているという。同社のノミネートは上司のパワーハラスメントがらみの自殺が原因で、同社ではほかにも同様の自殺が複数件起きているようだ。
 同じ社ではあるが、ぼくが通う某郵便局は「ブラック」とは無縁の心優しい職場だった。そもそもパワハラは上司次第のものであろう。ぼくにとっては顔を合わせる職員すべてが上司になるが、そこにはひとを責めるという空気はまったくなかった。ミスはもちろんあっただろうが、そんなミスは当たり前といった様子で、ミスを犯した当人を捜し出すようなこともなかった。ただ、夜勤そのものが「ブラック」というのであれば、たしかに「ブラック」にはちがいないだろう。
 あふれ返っている郵便物や荷物のなかでも、大型封筒のほとんどは企業のDMや通信販売のカタログ類である。これら一切の荷物や郵便物を1分でも早く流し、届けるために郵便部は24時間動き続けている。もしDMや通信販売のカタログ類が完全にインターネットにかわり、荷物の配達にもっと余裕がもてるのであれば、夜勤など不要になるのではなかろうか。とくに宅配便会社がごく普通に行っている翌日配達や配達時間指定はサービス過剰のようにも思える。
 作業中はずっと立ったままだが、ジョギングをやっていたせいか足腰に疲労を覚えることはなかった。昼夜逆転の生活にも、看護師さんたちのインターネット上の書き込みを参考にどうにか対応できた。世間には夜勤が必要とされる仕事などいくつもあって、「郵便局の夜勤など、いちばん楽なほうだ」という書き込みも読んだ。

 作業上必要な会話をのぞけば、会話は多くはない。それでも本館から別館への移動や作業の合間など、Bとは冗談のような会話も交わすようになったが、Cは極端に無口で、声をかけても反応がないこともあったせいか、声をかける機会も少なくなった。
 Bはひとつ習うとふたつ覚えるようなところがあって、ぼくと比べると仕事のセンスは上をいっていた。そんな不器用なぼくでも、終盤に近づく頃にはほどほどスムーズに作業をこなせるようになっていったように思う。
 次第に作業に慣れていくことが、困難な課題をひとつひとつクリアしていくゲームのように感じられ、そこに面白味さえ見出すようになっていた。それでもいつ挫折してもおかしくないという気持ちがどこかにあって、それはひとえに出勤時の嫌な気分にあった。夕食を済ませて一段落したのち、仕事のために外に出るという嫌な気分には、いつまでたっても慣れることがなかった。外に出てしまえばどうってこともないことなのだが、この嫌な気分はアルバイトが終わるまでつきまとった。
 また出勤日の晩酌は控えめにしたが、これも辛かった。逆に朝帰宅してから食べるご飯と味噌汁、ぬか漬けはじつに美味かった。初めて感じるような旨味さえ覚えた。味覚が敏感になっていたのだろうか。ついでになるが、妻につくってもらったおにぎりを1個、休憩時間に食べていたが、これも格別で、とくに梅干しが美味かった。

 1月上旬、最後の勤務が明けた朝、BやCとともに作業場を回り、お世話になった長期アルバイトや正社員に挨拶した。「誰かひとり残ってくれないかな?」とか「夏頃に忙しくなるから、また来てください」という声もあった。
 その後ロッカー室へ行ったところ、無精髭だらけのBが「工藤さん! 終わりましたね!」と両手を伸ばして近寄ってくるではないか。Bはぼくよりもひと回り以上も若いとはいえ、夜勤には参っていたようだ。眠り込んでしまって休憩が終わったことにも気づかず、作業場に出てこないBを叩き起こしに戻ったこともあった。それだけに最後までやり遂げたことが心から嬉しかったようだ。
 ぼくは戸惑いながらも片手で握手に応えた。Bはぼくの名前を覚えてくれたが、ぼくは彼の名前を覚えることもできなかった。さらにそばにいた無口なCが、「どうも、ありがとうございました」とはっきりとした口調で言った。初めて耳にしたきちんとした言葉だった。彼も嬉しそうに笑みを浮かべていた。
 Bは「夏になったら、またここで会いましょうか」とも言ったが、すぐさま否定した。どうなるかわからない今後の生活を思い浮かべたにちがいない。さあ、これでお別れ。ゲームは終わりだ。
 勘違いしてはいけない。これは1カ月の短期アルバイトだからやり遂げられただけのこと。ぼくには夜勤の長期アルバイトは務まらない。これが実感である。あの勤勉な長期アルバイトの若者たちが気にかかる。どこかでレールを外してしまったのであろう。「40まではこの仕事できないよな」という彼らの会話も耳にしたことがあった。 (2017/01)

<2017.1.25>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第52回:原発事故の教訓

 2015年5月福島県は、福島第一原発事故による自主避難者へ無償で行ってきた住宅支援を、2017年3月末で打ち切る方針を示したが、これを受けて2015年6月9日、参議院会館にて「避難用住宅の無償提供の打ち切りに反対し、撤回を求める院内集会」が開催された。その様子がブログ『民の声新聞』(2015年6月9日付)で紹介されているので、引用をまじえて紹介する。
 原発事故当時、国政の最高責任者だった菅直人元首相が次のように語っている。
 「もっと早い段階でSPEEDIを避難の指針として使うべきだった。私の責任。申し訳なく思っている」「自主的避難だから、という区別はあり得ない」「住宅無償提供は絶対に打ち切るべきではない」。そして当時、福島の各自治体が住民避難に消極的だったと打ち明けた。「個人的にはできるだけ避難の基準を厳しくしたかったが、『自治体が機能しなくなる』と自治体関係者の声があった」。
 事故当時、双葉町町長だった井戸川克隆氏は「彼は正直に話した」と元首相の言葉を振り返った。
「当時、福島県庁は官邸にものすごい圧力をかけた。佐藤雄平知事(当時)は俺に言ったんだよ。『県民を外に出したくない』ってね」。住民の生命を守るはずの行政が住民避難に消極的な姿勢をとった結果、多くの「自主避難者」を生んだ。そして今、彼らを切り捨てようとしている。井戸川氏は呼び掛けた。「皆さんは必要に迫られて動いたんだ。自主避難ではありませんよ。そういう考えは捨ててください」。

 この自主避難者への支援打ち切りについて、『東京新聞』(2017年1月28日付)「社説」で詳しく解説しているので、そちらを参考にしたい。
 自主避難者とは、国が定めた避難指示区域外から被曝を避けるために自主的に避難したひとたちのことである。避難指示区域内から避難したひとたちとは異なって、不動産賠償や精神的慰謝料などを受け取ることはできないが、災害救助法を適用して避難指示の有無にかかわらず仮設住宅が無償提供されてきている。
 全国の都道府県は事故発生直後から、民間賃貸住宅や公営住宅の空き部屋を借り上げることによって、「みなし仮設住宅」として避難者に無償提供してきた。家賃は福島県を通じて国庫負担金で賄われていて、これは賠償の対象外となった自主避難者にとっては唯一の補償のようなものだった。
 福島県は除染が進んだことや食品の安全が確認されたことを理由に、方針どおり打ち切りの予定だが、いまでも避難者の納得が得られているとはいえない。多くの自主避難者たちは、子どもの通学問題や放射能汚染に対する不安から現在の避難先での生活を希望しているのだが、その割合は年齢が若くなるほど高くなる。対象者は昨年10月時点で約1万2,000世帯(約3万2,000人)になるが、その7割が4月以降の住居は決まっていない。
 自主避難者の団体は住宅の無償提供の継続を要望しているが、福島県は打ち切りの方針を変えておらず、避難者側に示されたのは月額所得21万4,000円以下の約2,000世帯への家賃補助である。ほかに北海道や鳥取県、兵庫県宝塚市への自主避難者については受け入れ自治体が独自に無償提供継続を表明していて、東京都や埼玉県は有償ながら公営住宅の優先入居枠を設けるようだ。
 原発は国策で行ってきたという経緯を踏まえるならば、国の責任で支援延長を決定すべきであろう。安倍晋三首相にその気があれば、この程度のことぐらい難しいことではないはずなのだ。しかし被災者や避難者のことなど彼の眼中にはない。事故のことなど忘れてしまいたいし、何もなかったことにしたいようだ。多額の海外支援のほうがより重要だし、軍備も増強しなくちゃいけない、原発を再稼働させなくちゃいけない、オリンピックも開催しなくちゃ……というわけだ。
 ところで「国の責任で支援延長を」と書いたが、これは正しいことなのであろうか。たとえば、「避難の必要でもないところから勝手に避難したのだから、支援など不要」「自主避難はあくまでも自費が当たり前」というツイッターがあらわれる。
 しかし井戸川氏の発言にあったように、自治体維持のために行政側が意図的に強制避難区域を狭めることがあるなら、「避難の必要のないところから勝手に避難」という言い分は通らない。原発事故当時のことを思い起こしてみよう。避難指示の有無にかかわらず、必死の思いでみずから避難したひとびとは少なくなかったはずだ。様子をみながらのちに戻ったひともいただろうし、避難先に居続けるひともいる。このような動きは当然のことながら起こる。避難区域内外にとらわれず、国はそういったひとびとを支えなくてはならないように思う。

 国によるそういった支援は欠かせないが、その期間、地域となると、さまざまな問題が出てきそうだ。期間については避難者の希望や生活情況を確認しながらの個別対応となるのであろうが、支援する自主避難者の地域となると難しい。
 いま問題になっている自主避難者は福島県内のひとびとのみが対象になっているが、事故直後は東京をふくむ関東一円から北海道へ、あるいは西へと避難したひとびとがいた。関東一円ということは、すべて自主避難者といってよいのであろう。東京から避難したまま、いまも北海道や四国・九州・沖縄で暮らしているひとびともいる。そういったひとびとへの支援はどうするのかという問題は難しい。
 とくに小さな子をもつ若年層の家庭にとっては、将来の健康や生活をも巻き込んだ切実な問題だったはずだ。家族全員での避難もあるだろうし、夫のみが東京にのこって働き、母子のみの避難生活を続けている家庭もあるはずだ。そのまま生活が維持できているのならそれでよいのだが、そうではない家庭もあるはずなのだ。こうなると、どう判断すべきかわからない。

 福島から強制避難した家庭の子どもたちが、学校でいじめられるというニュースが報じられたのは昨年の暮れだったろうか。そんなことがあるものかと、ずいぶん驚いた記憶があるが、やがて、どこででも当たり前のように起きている事実を突きつけられた。新聞にはいじめられた子どもたちが書いたノートの原文が公開されて、身がひきつる思いで読まされた。
 困惑したのはいじめられた子どもだけではなかった。現場の教師も混乱したのか、いじめる側に回った教師さえもいた。横浜市の教育長にいたっては何を思ったのか、避難してきた子どもに対する150万円もの恐喝を「問題なし」で片付けようとしていた。
 原発は表向きは安全と言われ続けてきたが、その危険性や放射線被害については、半世紀も前から訴えられてきていた。しかしながらこのような自主避難者への支援問題や避難した子どもたちへのいじめなどは、いったい誰が想定できたであろうか。
 おそらく今回のような、避難がともなう大規模な事故が起きて初めて知ることになったように思う。これらの事柄を、原発事故が与えてくれた大きな教訓として受け止めなくてはならないと思うのだが、政治の世界はまったく異なる次元で動いているかのようだ。
 『東京新聞(2017年2月18日付)によると、原子力規制委員会の田中俊一委員長は、三反園訓[みたぞの さとし]鹿児島県知事と会談し、国の原子力災害対策指針について次のように説明している。
 「福島第一原発事故では無理な避難で多くの犠牲者が出た一方で、福島県民の被ばくによる健康影響も過度に心配する状況ではない。(今後、福島のような)深刻な事故が起こることは考えにくいが、何かあったときには原発5キロ圏内は放射性物質が出る前に予防的に避難し、5キロ以遠は屋内退避で様子を見るのが基本だ」
 これでは避難者への支援も不要だし、いじめの問題も起きようがない。これが福島第一原発事故から国が得た教訓なのだ。 (2017/02)

<2017.2.22>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第53回:まだ続く沖縄の闘い

 2016年12月20日、沖縄県の翁長雄志[おなが たけし]知事による名護市辺野古の埋め立て承認取り消しをめぐり、国が沖縄県を相手に提訴した不作為の違法確認訴訟で、最高裁第2小法廷(鬼丸かおる裁判長)は県の上告を退ける判決を言い渡した。これによって沖縄県による承認取り消しは違法だとした福岡高裁那覇支部の判決が確定した。判決を受けて翁長知事は年内にも承認取り消しを「取り消す」見通しで、国は年内にも埋め立て工事を再開する構えだ。一方で、翁長知事は辺野古新基地建設阻止の姿勢を堅持する方針を示しており、新基地建設をめぐる県と国の対立は新たな局面に突入する(『琉球新報』2016年12月21日付)。

 沖縄2紙をのぞく多くの新聞は「承認取り消しを撤回」としたが、行政法上は「承認取り消しを取り消し」が正しいらしい。この報道について、「ジャパンフォーカス」エディター乗松聡子氏が『琉球新報』(2016年12月21日付)「論壇」に記している内容をまとめた。
 「沖縄県の敗訴決定を受けて翁長知事が埋め立て承認取り消しを取り消す予定で、国が工事再開という論調の広がりには疑念を抱く。この判決では国は工事を再開できない。この判決は埋め立て承認取り消しが違法であると確認されただけで、それを受けて翁長知事が承認取り消しを取り消す法的義務は生じない。国が工事を再開するにはさらに代執行裁判を起こし、勝訴して初めて県の代わりに埋め立て承認取り消しを取り消すことができる。翁長知事が国に『判決に従う』ことを同意したという報道もあるが、この判決に『従う』ということは違法確認判決を認めるというだけであり、この判決に『従う』という理由で知事自らの意思で埋め立て承認取り消しの取り消しを行ったとしたら、県民への重大な裏切りになる」
 平安名純代[へいあんな すみよ] 『沖縄タイムス』米国特約記者も自身のフェイスブックの記事「翁長知事は埋め立て承認取り消しを取り消すな」(2016年12月21日付)にて、「今回の判決には、知事が承認取り消しを取り消さなければならない法的拘束力はない。もし知事が自ら埋め立て承認取り消しを取り消すというならば、まずその理由を県民に明確に説明し、判断を仰ぐ責任がある」と記している。
 そして12月26日午前、うるま市具志川九条の会(代表は元裁判官仲宗根勇氏)は、翁長知事が埋め立て承認取り消しを取り消さないよう求める要請書を県に提出したのち、「承認取り消しを取り消さない状態を維持しつつ、承認撤回に踏み切るべきだ」とするビラ1,000枚を県庁前で配布した(『沖縄タイムス』2016年12月26日付)。
 そんな訴えにもかかわらず同日午後、沖縄県は埋め立て承認の取り消し処分を取り消した文書を沖縄防衛局に送付した。これによって、文書が沖縄防衛局に到着次第効力が発生し、2015年10月以来、約1年2カ月ぶりに埋め立て承認が復活する(同前)。
 翌日の『沖縄タイムス』の「社説」は次のように解説する。「この日、県庁には取り消し処分の取り消しをやめるよう求める市民らが集まった。知事を支援する市民らが要求するのは前知事の埋め立て承認の『撤回』である。撤回は、前知事が承認した後、新たな事情が出てきたときに適用できる。承認後の知事選や衆院選、参院選などで示された民意が該当するとの考えがある一方で、撤回はハードルが高いと指摘する県関係者もいる」
 年が明けて1月中旬になって「沖縄県が承認撤回を検討」という報道があった(『東京新聞』2017年1月14日付)。記事によると、国は辺野古での海上作業の準備を進めており、県はその対抗策を急いでいるのだが、「撤回」は前例が少なく、手続きの現実性を疑問視する声もあって、慎重に検討しているという。
 翁長知事自身も「承認撤回は法的に可能」と、国への承認取り消し通告前の2015年6月に発言している。にもかかわらずこれまで撤回に踏み切ることはなかった。県弁護団の判断によるものであろうが、この段階で「撤回」を検討では、いささか遅すぎるのではなかろうか。

 2017年1月20日、アメリカではトランプ大統領が就任したが、就任前の昨年11月末、新政権は辺野古新基地計画を維持する方針との報道があった。そして1月30日、翁長知事は辺野古新基地建設阻止の意思を直接訴えるために渡米した。『琉球新報』(2017年1月29日付)では、前出の乗松氏による「撤回せずに(アメリカへ)行ったら、工事再開を許したことに礼を言われるだけ。すぐさま承認を撤回すべきだ」との指摘がされている。また『沖縄タイムス』(2017年1月31日付)「社説」は「県側の敗訴が最高裁で確定し、埋め立てに向けた工事が再開されている。辺野古新基地建設問題は終わったとの見方が広がる中での訪米でもある」と厳しい。
 翁長知事は、連邦議会の議会調査局メンバーや国務省日本部長、下院議員らと会談したほか、大学の公開セミナーで講演を行い、2月5日に帰国した。残念ながら新政権に近い人物との会談はなかった。
 訪米中にはマティス米国防長官が来日した。日本政府と辺野古が唯一で一致と報道され、アメリカで聞いた翁長知事は「県民に対して失礼なやり方」と怒り落胆した。じつはアメリカ側は沖縄県の事情を考慮して「辺野古」という地名を出さず、「普天間の移設先の施設の整備」という言い方をしたのだが、日本側は意図的に「辺野古」と発表し、マティス長官のお墨付きを得たかのように演出したといわれる。

 翁長知事帰国直後の2月6日、日本政府は辺野古の海上工事に着手した。これから200個以上のコンクリートブロックの投下がはじまる。『沖縄タイムス』(2017年2月22日付)掲載の平安名記者のコラムをまとめる。
 「すでに大浦湾では巨大なコンクリートブロックが投下され海上工事がすすめられているが、体を張って海を守ろうとする県民にとっては緊急事態だが、県側から聞こえてくるのは撤回慎重論ばかりだ。マティス国務長官の訪日に同行した国防省筋は『辺野古移設はすでに決着した』と語るとともに、『沖縄は撤回が有効な切り札となりえたタイミングはすでに逸したのではないか』と問いを向けてきた。前出の仲宗根氏も『工事が進めば進むほど裁判になったとき、撤回の効果は薄れ撤回の有効性の全否定もあり得ます』と警鐘を鳴らしている。時間はもう残されていない」
 さらに平安名記者の昨年12月31日のコラムでは、次のような話題を提供している。
 「元米高官で、米軍再編にも深く関わったことのある人物の話である。彼は米政府内にある沖縄の民意の尊重を説く声は、いつの時代も米軍にひっくり返されてきたと指摘し、『法廷で争える今がその構図をひっくり返す最大のチャンスだ。すべてのカードを使って最後まで闘い抜く必要がある』と強調した」
 しかし工事はすでに再開されてしまった。とにかく工事を止める方策を講じる必要がある。

 漁業権が設定された水域で海底の岩石などを壊す際には岩礁破砕許可が必要になるが、これまでは前知事の許可によって辺野古の工事が行われてきた。それがこの3月末に期限切れとなり、今後の工事続行には新たに許可申請が必要となるが、国は申請しない方針だ。地元漁協が工事現場の漁業権を放棄したため、漁業権消滅によって岩礁破砕許可は不要というのが国の見解だが、沖縄県は漁業権の消滅には知事の免許が必要で、まだ漁業権は残っていると主張。もし国が4月以降、無許可のまま岩礁破砕工事を行えば、沖縄県は工事差し止め訴訟を提起するとともに、判決までの工事停止の仮処分の申し立ても行う方針だ。沖縄県は、直近の那覇空港の同様の工事事例では国は新たに許可申請を行っていて、今回の国の対応は恣意的だと批判している(『琉球新報』2017年3月17日付)。
 また新たな裁判がはじまる。今後もこのような裁判がいくつも続くことになるが、これで工事を中断させられるとよいのだが。

 2016年12月、東村高江地区のオスプレイ用ヘリパッドが完成し、米軍北部訓練場の半分超の土地が返還された。しかし現実にはまだ工事は終わっておらず、住民たちによる監視活動や抗議活動はいまだ継続中である。辺野古大浦湾ではじまった大型コンクリートブロックの大量投入には3カ月ほどを要し、その後護岸工事(本体工事)に移る予定だ。ここでも連日の抗議活動が続けられている。昨年 10月に微罪で逮捕された山城博治氏ら3人の長期拘留について国際的な問題になっていたが、3月18日になってようやく保釈が認められた。
  『東京新聞』(2017年2月24日付)掲載のアメリカ議会調査局が発表した、トランプ大統領就任後初の日米関係に関する報告書の記事によれば、辺野古の抗議運動については安倍政権以上に神経質になっている議会の様子がうかがえるのだが、米軍は一度占領した沖縄は自分たちのものという意識だとか、アメリカの政治は軍が主導しているといった文言に接することも多い。沖縄に新たな米軍基地をつくらせるわけにはいかないことは当然で、翁長知事はじめ沖縄の闘いを注視していかなくてはならない。ただ、政府が今国会で成立を目指している共謀罪は、抗議活動の連絡を取り合う程度のことでも対象とされてしまう恐れがあり、懸念材料は確実に増えることになる。 (2017/03)

<2017.3.22>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第54回:那須岳の雪崩事故について

 この3月27日、栃木県の那須温泉ファミリースキー場で起きた雪崩事故で、教員・高校生合わせて8人が死亡したほか、40人が重軽傷を負った。栃木県高校体育連盟登山専門部主催の春山安全登山講習会の行動中の事故である。栃木県警は業務上過失致死傷容疑で捜査を開始し、講習会の責任者を務めていた県高体連登山専門部委員長の教員(大田原高校山岳部顧問)の勤務先にも家宅捜索を行った。刑事責任が問われそうな動きである。
 事故の現場は、奇しくも島燈社所在地より北へ直線距離で15キロほどの那須岳中腹だった。多くの被害者はドクターヘリや救急車で搬送され、地元の病院も大変な混乱だったという。

 1964年1月、秋田県の大館鳳鳴[おおだてほうめい]高校山岳部が、青森県の岩木山で4人が死亡するという遭難事故があった。吹雪で方角を失い5日間山中をさまよい、生還したのは5人のうちひとりのみだった。ぼくが同じ秋田県にある高校の山岳部に入ったのはその4年後だが、入部に際してはその遭難の顛末を先輩から詳しく教えられた。また15年ほど前の3月、知人が上越の山へひとりで出かけたきり、戻ることはなかった。何度も一緒に山へ出かけた知人だが、ぼくが山から遠ざかるようになった直後の出来事だった。
 ぼく自身もアイスバーンの斜面で滑落しかかったことがあるが、雪山での遭難事故はけっして縁遠いものではない。ただ今回の雪崩事故は講習会という性格上、これらの遭難とは明らかに異なるものだ。それにしても同時に8人死亡というのは、あまりにも痛ましい。亡くなった方々のご冥福をお祈りしたいと思う。

 非営利団体の日本雪崩ネットワークが、事故翌日に現場調査を行いホームページ上に非常にわかりやすい写真を載せているので、転載させていただいた(写真01)。赤点線が雪崩の流下方向。赤丸がおよその被災位置。救助に関わった方の話によると、現場へは緑点線のラインを登ったとのこと。青点線は同じ27日に発生した別の雪崩の流下方向である。
 当初テレビでニュースが流れたときはスキー場での雪崩と聞こえたが、正確には樹林帯の斜面を突き抜けた尾根上だった。スキー場のゲレンデでも雪崩は起こることはあるとは思っていたが、ゲレンデのまったくの外での事故だった。
 大田原高校山岳部顧問を20年以上も務めてきたという講習会責任者の記者会見をテレビで観たが、8人も亡くなっていることもあってか、記者からの厳しすぎる質問には思わず同情してしまった。新聞には「登山ベテラン 経験過信?」「現場は雪崩危険箇所」の見出しが躍り、検証記事にも大きく割いていた。
 とりあえず一般的な話から始めたい。雪山を登っていると、雪崩が起きそうな現場に遭遇することは頻繁にある。厳冬期が過ぎて雪が緩んできた頃、つまり3月中旬から5月中旬までならどこででも起きると思ったほうがいい。
 行動中に立ち止まり、「あそこは崩れるぞ、近付くな」と緊張した声が飛ぶ。ほかにルートがとれるならいいのだが、ほかにルートがなければ、「あそこはヤバいな、でも慎重に行くぞ」ということもある。斜面を横切るときなど、「あそこは崩れそうだから、息を止めてそっと通過しろ」という会話もよくある。
 そういった危険な箇所を避けてばかりいては、山など登れなくなってしまう。だから多少の危険は承知のうえで登る。これが実態である。それでもキャリアの長い登山者の多くは、大きな雪崩に遭遇することもなく数十年間も山を登りつづけてきている。記者会見で対応していた責任者もおそらくそうだろうと思われる。
 テレビで紹介されていた山全体の写真や今回のルートを観て、コメンテーターのひとりが「もしかしたら、頂上へ行くつもりだったのでは……」と話していた。緑点線のことだが、頂上を目指すのなら確かに普通にとるルートである。荒天のため頂上を断念してラッセル訓練に切り替えたというが、天候が少しでも好転したら頂上を目指そうという気持ちが、引率していた教員たちには共有のものとしてあったのではないかと思う。
 県内の高校山岳部が一堂に会することなど年に数回のことで、おそらく今回はこのシーズン一度きりの機会である。できることなら頂上まで行かせたい。そういった気持ちでの行動中に起きた雪崩事故ではないだろうか。
 雪崩が流れた斜面(赤の点線)を見て、正直のところぼくには雪崩は予測できないと思えた。通常の3月中旬以降であれば雪崩が起きるほどの斜面とは思えなかった。テレビに登場した専門家は「典型的な雪崩地形ですね」と言っていたが、だからといって必ず雪崩が起きるわけではない。
 今回は、前日から30センチ以上も新雪が積もっていたようだが、このような表層雪崩は判断しにくい。登りながら雪の状態を見極めていくしかないのだ。同日に起きたというもう一方の雪崩(青の点線)とは明らかに異なるだろう。

 さて今回の事故は、県高体連登山専門部主催の講習会で起きたものだ。主催者側は教員であり、受講者は生徒である。受講者は主催者側の安全管理のもと、指示に従って行動することになる。そこで死亡事故が起きれば主催者側の責任が問われる。ある程度厳しい追及もやむを得ないものなのかもしれない。
 新聞でもいろいろ書かれていたが、主催者側の落ち度も少なくないだろう。荒天のなかでラッセル訓練を行ったこと、事故の発生を連絡するよりも救出を優先したこと、責任者が無線機から離れていたこと、教員同士で携帯電話の番号を交換していなかったこと、雪崩に巻き込まれた場合の対処の仕方を教えていなかったこと、国有林への入林許可申請を怠っていたこと、ビーコン(電波受発信器)を携帯していなかったことなどが指摘されているようだ。
 これらのなかには、とくに問題とはいえない事柄も含まれているのだが、ぼくは亡くなった大田原高校の教員のことが気になった。
 その教員について、父親が「雪山登山の初心者だった」と話している。その教員が山岳部顧問だったのかどうか、報道が分かれていて正確なところがわからない。山のベテランの顧問(登山専門部委員長、今回の責任者)に誘われて新米顧問として修行中だったのかもしれない。ラッセル訓練の際、その教員が付き添っていた大田原高校が先頭で行動していたのは理解に苦しむ。先頭パーティーは状況に応じてさまざまな判断を迫られる立場だ。今回の場合、経験豊かな教員であれば雪の感触から異変を感じ取れたかもしれなかった。
 また、当日は登山行動を中止するくらい吹雪いていたという。休憩をとるのであれば尾根上ではなく、風を防ぎやすい樹林のなかでとるほうが自然ではなかろうか。樹林のなかであれば、雪崩に襲われても被害は軽く済んだ可能性がある。これは何人かの方からの指摘もあった。
 このように先頭パーティーという重要な位置に、経験のない教員をおいたのは大きな誤りのように思えてならない。

 この事故の影響で、高校山岳部の活動が萎縮してしまうことをぼくは危惧している。まず、高校山岳部の冬山完全禁止になるのは困る。ぼくの高校山岳部時代も原則冬山禁止だったが、指導者がいる場合は許されていて、ぼくらは顧問のほかOBの応援を得て積極的に登っていた。
 山岳部を休部とする学校が出るかもしれない。さらに子を山岳部から退部させようとする親、山岳部の顧問を辞退する教員も出てくるかもしれない。
 山岳部の顧問というのは、山の経験の豊かな教員がいない場合は経験のない教員が任されることがある。そういった顧問のなかから辞表を出す教員が出てくる可能性がある。とくに今回の記者会見の厳しい追及の様子を観ると、そう思っても無理はないだろう。
 山登りを愉しいと感じるのはひとそれぞれであろうが、山登りの愉しさと出会う機会を若者から奪わないでもらいたい。山登りは文化的な背景をもつ奥深い贅沢な遊びであろう。学校関係者には慎重な判断をお願いしたいところである。
 山登りは自然相手としているため、判断の誤りは起こりうる。記者会見の席上、責任者は「絶対安全にできると判断した」と述べているが、基本的に山のなかで「絶対安全」はない。「遊び」でありながら、常に命を失う可能性が潜んでいるものである。スキー場近くの樹林帯ということで、まだ山ではないという油断があったことは否めないだろう。ぼく個人としても、亡くなった方々には申し訳ないが、運が悪かったと言いたい気持ちが少なからずある。
 栃木県教育委員会の第三者委員会による検証委員会が立ち上げられていて、6月までに原因究明につとめるようだ。 (2017/04)

<2017.4.27>

01 那須岳全景(日本雪崩ネットワークのホームページより転載)

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第55回:沖縄の平和主義

 この4月5日、大田昌秀元沖縄県知事がノーベル平和賞候補に認められたという報道が流れた。同氏は著書『沖縄 平和の礎』(岩波新書、1996年)のなかで沖縄の平和主義について触れていて、次のような内容が記されている。自分なりにまとめてみた。
 明治時代の琉球処分の過程で、日本政府は琉球王府に対して熊本の第六師団の分遣隊の駐留を要求したが、琉球王府は頑なにこれを拒否した。その理由は次のようなものだった。①南海の孤島にすぎない沖縄にいくら軍備を増強しても、軍備によって敵国に対処することはできない。②小さな島国に軍隊をおけば、かえって外国から危険視され、侵略をまねく恐れがある。 ③軍事力をもたずに礼儀正しく友好的に隣国のひとびとと付き合うことによって、平和を維持することが可能である。
 琉球王府が強硬に抵抗したのは当然だが、日本政府は分遣隊配備を強行する。その大義名分は、琉球処分によって日本の領域内に入ることになり、政府は域内のひとびとの安全を保障するために軍隊をおくというものだったが、その本音は、琉球処分に対する琉球王府のひとびとの抵抗を押さえることにあった。
 
 沖縄平和運動センターの山城博治議長は、有刺鉄線を1本切った器物損壊容疑での現行犯逮捕のほか、公務執行妨害や傷害容疑、威力業務妨害容疑もかけられ、那覇地方検察庁は4つの罪で起訴した。5ヶ月間拘留され、初公判が行われた翌日の今年3月18日に保釈された。
 山城氏は6月の国連人権理事会で日本政府の不当な弾圧についてスピーチを行う予定だが、裁判はまだ進行中である。偶然にも共謀罪についての氏の生の声を聞く機会にも恵まれたが、新聞のインタビューでは次のようなことを語っている。
 「沖縄戦では旧日本軍の基地があるところが攻撃された。一切の基地はいらないというのが沖縄県民の素朴な感情だ」。長期拘留中、山城氏を支えたのは「基地建設を容認できない沖縄県人としてのアイデンティティー」だったともいう(『東京新聞』2017年4月16日付)。
 山城氏の発言は、大田氏が記している内容と重なるし、当時の日本政府の姿勢と南西諸島への自衛隊配備に積極的な安倍政権が重なってくる。

 作家の故立松和平氏が「与那国島サトウキビ刈り援農隊」に参加したのは1981年だった。3シーズンほどサトウキビ刈りの援農に携わり、著書『砂糖キビ畑のまれびと』(晩聲社、1984年)をまとめた。
 「毎朝8時に砂糖キビ畑にでていき、キビの根元に手斧を振りおろし、倒れたキビの葉や皮を鎌で削っては藁縄でしばる、単調で過酷な労働の明け暮れだ」。キビ刈りの合間を縫って水田で田植えもやれば、製糖工場へも行く。猫の手も借りたい忙しさだった。重労働からくる足腰の痛みは「どなん」を呑んでごまかした。
 キビ刈りは短期間の仕事だ。人手不足のため、毎年2〜3カ月ほどは季節労働者が必要となる。援農は国内からのみではなく、台湾や韓国からも頼んだ。なにしろ、戦前は日用品は台湾から運ばれ、国民学校の修学旅行も台湾へ行っていたという島で、島内で運転免許証をとれないひとはサイパンに行ってとっていたという。近隣の国と仲よくしなくては成り立たない島である。
 立松氏が働いたころは刈り取ったサトウキビを水牛が運んだという。人口わずか1,500人、のどかで平和な島に、昨年3月、安倍政権は自衛隊を派遣した。もちろん、それまでは自衛官など、まったくいなかったところである。
 町議会が自衛隊誘致を決議した2008年以降、町長選や町議選のたびに誘致賛成・反対両派が激突してきた。2015年2月に行われた住民投票の投票率は85.74%で、賛成49.5%、反対34.9%となった(『ハフィントンポスト』2015年2月23日付)。そして、陸上自衛隊「沿岸監視隊」の駐屯地とレーダー施設がつくられ、自衛隊員とその家族あわせて250人が新たな住人となった。
 配備された沿岸監視隊は、警備小隊、通信情報、後方支援隊、レーダー班、監視班など160人で構成される。2箇所に設置された電波傍受装置のレーダーでは、中国軍の通信情報を拾うことが可能で、尖閣有事の際の活動拠点になる。ということは武力衝突が起きた場合には、真っ先に攻撃対象となる(『八重山毎日新聞』電子版、2016年4月2日付)。しかし、いまは町民の15%が自衛隊関係者が占めることになった。いずれ彼らが町長選や町議選の結果を左右することにもなるだろう。
 2016年、あたかも時を同じくしたかのように、1976年以来続けられてきた「与那国島サトウキビ刈り援農隊」が40年目にして幕を閉じた。今年2月には記念式典も行われたようだが、存命であれば駆けつけたはずの立松氏も、世を去って7年になる。今後も、援農募集は別の形で続けられるという。
 
 与那国駐屯地を第一弾として、このような自衛隊の配備は、奄美大島をふくむ南西諸島全体ですすめられる予定だ。2年後をめどに宮古島や石垣島には地対艦ミサイル部隊などを配備。奄美大島には現在、海上自衛隊の分遣隊の基地(瀬戸内町)、航空自衛隊の分屯基地(奄美市)があるが、はさらに陸上自衛隊地対空ミサイル部隊と警備部隊(奄美市)、地対艦ミサイル部隊(瀬戸内町)を配備する計画で、両市町長とも防衛省の要請をすでに承諾している。
 こういった動きの背景について、軍事評論家の前田哲男氏は「ミサイル配備は各島の間を通過する中国艦隊への威嚇と攻撃が狙い。米中は互いの本土に三十分で到達し、破壊できる弾道ミサイルを積んだ原子力潜水艦を保有し、その位置の秘匿と護衛が最大の国益。米国の原潜を守るため中国艦隊を食い止めろというのが、日本に課された任務」という(『東京新聞』2017年3月31日付)。
 はたして、大田氏が記した沖縄の平和主義はどうしたものであろうか。八重山地方が10年ほど前から保守・極右色を強めていることは、2014年6月のこの欄でも、教科書採択問題をテーマに取り上げた。八重山に米軍基地がないことや尖閣諸島を抱えていることを根拠にするひともいるが、そもそも沖縄の平和主義といっても歴史に裏打ちされたものではない。16世紀の琉球王府は、奄美から八重山までを服属させ中央集権体制を確立したという背景もあれば、沖縄本島とその他の島には差別構造があることも否定できない。

 自衛隊配備計画に揺れる島民の姿を描いたドキュメンタリー映画『標的の島 風かたか』の三上智恵監督は、風よけを意味する「風かたか」に「日米両政府が沖縄に押しつける『防波堤』の意味を込めた」という(前掲)。
 『沖縄タイムス』(2017年4月16日付)に、作家の辺見庸、目取真俊両氏の対談「本土の視線 潜む欺瞞」が掲載された(『沖縄タイムス』『琉球新報』両紙に同日掲載だったようだ)。あるブログで紙面が紹介されていたので読むことができたが、目取真氏の発言に次のようなものがあった。
 「日本には現在も最終的に守るべき『絶対国防圏』があり、沖縄はその中に入っていないだろう」「宮古、石垣、与那国で自衛隊の配備強化が進んでいる。仮に日中間で武力衝突が起こった場合、尖閣、宮古、八重山、さらには沖縄島までは戦場にしてもいいという意識が政府にはあると思う」
 沖縄はこれまでも、太平洋戦争では「捨て石」と呼ばれ、ベトナム戦争当時は「太平洋の要石」と呼ばれたこともあったが、今度は「防波堤」である。「捨て石」だろうが「防波堤」だろうが、意味するところに大きなちがいはないだろう。
 いくら北朝鮮がミサイルを撃ち核実験を行おうが、先制攻撃に出ることはない。攻撃を仕掛けた段階で国際的に断罪され、孤立することになる。アメリカも中国も、反撃能力をもつ国に対して先制攻撃に出ることはないはずだ。あまりにも被害が大きくなりすぎる。
 最も危ういのが日本の安倍政権である。北朝鮮や中国を念頭に必要以上に危機を煽り続ける。安倍政権にこそ沖縄の平和主義が求められるのだが、対話など端から考えていないようだ。
 沖縄本島には米軍基地があり、南西諸島には自衛隊基地が配備され、戦時となった場合には自衛隊は米軍の先兵となって南西諸島全域が戦場と化すのだろうか。もしや、先方から先制攻撃を受けたことにしてこちらから攻撃を仕掛ける……。こんな悪夢はない。杞憂に終わってほしいものである。
 5月15日、沖縄返還45周年を迎えた。この国はなにも変わらなかった。いや、そうではない。政治評論家の天木直人氏曰く、いま行われているのは、権力側(安倍政権)によるクーデターなのだそうだ。我々はどう対峙すべきか。本土も沖縄もズタズタにされる前に安倍政権を倒さなくてはならないのだが、正直のところ自信はない。 (2017/05)

<2017.5.21>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第56回:国連から心配される日本

 5月中旬から6月にかけて、国連と日本政府の間のぎくしゃくした報道が続いた。
 国連特別報告者ジョセフ・ケナタッチ氏による共謀罪法案についての勧告、同じく国連特別報告者デービッド・ケイ氏が国連人権高等弁務官事務所に提出した特定秘密保護法関連の報告書など、双方に対して日本政府は立て続けに抗議している。
 そんな報道が続いたところに、イタリアのタオルミナで開催されたG7会合中の安倍晋三首相とグテレス国連事務総長との会談で問題が起きた。国連とはいってもほかの2件は特別報告者だが、こちらは事務総長だったので驚いた。『東京新聞』(2017年5月30、31日付)を参考にまとめてみた。
 グテレス国連事務総長と安倍首相の会談が行われたのは、現地時間の5月27日正午前から10分間。通訳を介してのわずか10分である。簡単な挨拶のようなものとしか思えないが、会談後、外務省はその内容の要旨を同行記者団に配布し、ホームページにも掲載した。
 外務省によれば、慰安婦問題の日韓合意について、「先方(事務総長は)は、同合意につき賛意を示すとともに、歓迎する旨述べた」とし、国連人権理事会の特別報告者ケネタッチ氏について、「(事務総長は)特別報告者は、国連とは別の個人の資格で活動しており、その主張は、必ずしも国連の総意を反映するものではない旨述べた」と発表した。
 ところがこの翌日、国連側からこれを否定する内容のプレスリリースが発表された。極めて異例のことだという。「事務総長は、日本と韓国の間の合意によって、解決されるべき問題であることに同意した」とし、「特定の同意内容については意見を述べなかった」という内容である。またケナタッチ氏について「特別報告者は独立した専門家であり、国連人権理事会に直接報告する」としている。
 日韓合意に関しての日本側の発表は完全に否定され、特別報告者に関してはピント外れであろう。特別報告者は人権理事会と総会に向けた報告書を作成する政府や組織から独立した専門家であり、採択されれば総意となる。
 これに対して外務省は「日本側の理解は発表したとおり。会談のプレスリリースは、それぞれの国などが一番重要だと思うところを出す」とし、菅義偉[すが よしひで]官房長官も「日本側が発表したとおり」と述べた。
 韓国政府は眺めているわけにはいかなかった。外相候補(当時)だった康京和[カン ギョンファ]氏がグテレス氏に直接問い合わせ、「特定の合意に対して話したのではなく、当該国同士が問題の解決方法を決めるべきだという原則を表明した」との回答を得た。康京和氏は国連でグテレス氏の政策特別補佐官を務め、昨年10月からはグテレス新国連事務総長の移行チーム長も務めていた(6月18日、新外相に任命された)。
 国連が即座に異例のプレスリリースを発表したのは、韓国側から問い合わせがあったためだった。なおネット情報ではあるが、今年の1月に国連事務総長に就任したばかりのポルトガルの政治家であるグテレス氏は、慰安婦問題の日韓合意そのものを知らなかったし、安倍首相と日韓合意の件について触れたのはわずか数十秒だったという情報もあった。
 韓国の新大統領文在寅[ムンジェイン]氏が、以前より日韓合意の無効化・再交渉を訴えていたため、安倍首相は国連事務総長との会談の場でこの問題を持ち出した。グテレス氏がよく理解しないままにうなずいたのを「賛意を示すとともに、歓迎する旨述べた」と発表し、国連事務総長のお墨付きをもらったことにしたかったようだ。
 外務省のホームページには、英語文・日本語文ともに、いまだにそのままの内容で掲載されている。安倍政権にとっては国連の反論などどこ吹く風で、変更するつもりはないようだ。

 6月15日朝、共謀罪法(改正組織犯罪処罰法)が可決・成立した。これによって「特定秘密保護法」「安保関連法」との三位一体で、事実上の「戦前レジームへの回帰」が法的に担保されることになるという(山口大学名誉教授・纐纈[こうけつ]厚氏)。
 ところで、国連のプライバシー権担当の特別報告者ジョセフ・ケネタッチ氏が、安倍首相宛に送付した書簡は5月18日付だった。共謀罪法案がプライバシーや表現の自由を制約する恐れがあること、この法案の「計画」や「準備行為」の文言が抽象的で恣意的に適用されかねないことなどを警告したその書簡は、送付とともに国連人権高等弁務官事務所のホームページにも掲載された。
 ケネタッチ氏の書簡は、日本国内外の報道を確認し、国際会議などでさまざまな研究分野の日本の学者とも意見交換したうえ、日本人弁護士らへの確認作業をへてまとめられたもので、あくまでも氏自身が得た情報をもとに評価したものであり、自分の批判の正確性に関して追加情報や(日本政府側の)見解が欲しいと断っていた。
 しかしながら、日本政府は即座に「特別報告者は独立した個人の資格で、国連の立場を反映するものではない。政府は(ケナタッチ氏に)直接説明する機会もなく、公開書簡の形で一方的に発出されたもので、書簡の内容は明らかに不適切」と抗議した。
 この抗議は、19日午前、在ジュネーブ日本政府代表部の職員が国連人権高等弁務官事務所を訪れ、1ページあまりの文書を届ける形で行われたもので、まさに電光石火である。話し合いの場を設定することもなく、いきなりの抗議だった。
 ケナタッチ氏は日本政府からの抗議文について、「中身のないただの怒り」「内容は本質的な反論になっておらず、プライバシーや他の欠陥など、私が多々挙げた懸念にひとつも言及がなかった」と指摘するとともに、法案の公式な英訳文と説明を求めた(『東京新聞』同年5月23日付)。また公開書簡としたことについて、のちに次のように説明している。
 「通常は政府に非公開の書簡を送って回答を待つなどのプロセスを経る」と説明。ただ、今回の改正案については「国会で議論が始まった当時から(法案成立までの)タイムテーブルが明確に決まっていた。日本の人々の利益を守るために最も賢明な行動としては、公開の書簡を送り、私の懸念を明らかにすることだと考えた」(『産経新聞』電子版、同年6月9日付)
 まさに公開書簡の4日後の5月23日、共謀罪法案は衆議院で採決され、通過した。
 
 日本は、昨年秋に行われた国連人権理事会の理事国改選選挙にみずから立候補し、当選している。日本の理事国入りには反対の声もあったため、「特別報告者との有意義かつ建設的な対話実現のため、今後もしっかりと協力していく」との誓約書を、国連加盟各国に配布したうえでのことだった。そうした経緯があって、今年1月から任期3年の国連人権理事会の理事国となった。この点を国会で共産党の議員から公約違反と指摘されたが、安倍首相は回答しなかった。
 国連に約30年以上も勤務し広報官も務めた植木安弘上智大学教授は、「国連が任命した専門家の意見だ。政府は真剣に検討しなければならない」「日本のプライバシー権に関する状況が今のままでよければ、きちんと書簡に反論すべきだ。不十分であれば、修正すればいい」と語っている(『東京新聞』同年5月24日付)。
 日本政府は当初、ケナタッチ氏に対してしかるべきタイミングで説明したいとしていたが、最終的にはまったく説明もなく、法案の公式な英訳文も提供しなかった。おそらく公式な英訳文はない。つくらないことによって、海外からの批判も「不正確な理解だ」とかわせることになる。
 ケネタッチ氏は国連人権理事会で、日本政府の対応をありのままに報告することになる。さらに法案が成立すればそれで終わりではなく、これからも日本政府に改善を求めていくことになるという。

 ケネタッチ氏の件や、グテレス国連事務総長との会談内容が報道が続いているさなかの5月30日、国連人権高等弁務官事務所は、言論と表現の自由に関するデービッド・ケイ特別報告者がまとめた対日調査報告書を公表し、さらにケイ氏は6月12日、スイスのジュネーブで開かれた国連人権理事会で報告を行った。日本政府代表は「わが国の立場に正確な理解がなく、遺憾だ」と強く反論した。
 ケイ氏は昨年4月に来日して、ほぼ1週間にわたって聞き取り調査を行ったが、その様子を昨年5月のこの欄で紹介している。氏が強く面会を求めた高市早苗総務相は国会対応を理由に拒みつづけたこともあって、日本政府の非協力的な態度に不信感をあらわに帰っていった。またケイ氏は記者クラブ制度の廃止も求めているため、大手マスメディアにとって不都合なそういった報道がされることはない。

 アメリカのトランプ政権は、国連人権理事会からの脱退を検討しているという。ニッキー・ヘイリー国連大使によれば、人権理事会の理事国は人権擁護の成果を基準にして選出されなければならない。現状のように、反政府デモを弾圧しているベネズエラや、政府に反対する数千人を投獄しているキューバが、理事国として世界に人権問題を説くことは許されないという主張である(『東京新聞』同年6月8日付)。
 わが安倍政権はトランプ政権の姿勢を頼もしく受け止めているにちがいない。このまま政権が続くのであれば、いずれ国連人権理事会から手を取り合っての脱退もあり得るかもしれない。 (2017/06)

<2017.6.20>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第57回:人権と司法

 『東京新聞』(2017年6月1日付)に、「『共謀罪』国際人権規約違反の恐れ」という気になる記事があった。国民にとって大きな懸念となっていた「共謀罪」法について、今年3月まで明治大学の特任教授を務めていたローレンス・レペタ氏の見解を取材した記事である。
 ちなみにレペタ氏はアメリカの弁護士でもあり、日本の裁判で傍聴人がメモをとる権利を主張して認めさせた人物であり、それは「法廷メモ訴訟」などと呼ばれている。
 記事のなかでレペタ氏は、日本の警察の捜査の実態をみると、「共謀罪」法案は国連の特別報告者の勧告以上に深刻な問題をはらんでいると指摘する。レペタ氏が例示したのは、日本とアメリカで明らかになったイスラム教徒に対する監視活動の実態である。これに関連する記事は、「共謀罪」法の施行当日、7月11日にも『東京新聞』で紹介されている。
 記事によれば、2010年10月に日本の警察の内部文書がネット上に大量に流出したことが発端となり、イスラム教徒への監視捜査が明らかになった。その内部文書では、情報収集の対象は日本人もふくむ国内に住むイスラム教徒で、氏名、住所、勤務先、旅券番号、写真をはじめ、銀行からも任意で名簿や口座情報が提供されている。警察はそれらの情報をデータベース化し、モスクの前に設置した監視カメラで礼拝に集まるひとびとを尾行していた。レペタ氏は「憲法で保障された信教の自由を侵しているばかりか、警察による宗教差別そのもの」と指摘する。
 監視対象となっていたイスラム教徒17人が、2011年からプライバシーを侵害されたとして、国と東京都を相手に東京地裁に損害賠償請求した。一審、二審とも警視庁の過失が認められ、東京都に約9,000万円の支払いが命じられたが、「国際テロを未然に防止するためには必要やむを得ない」とした。最高裁に上告したものの昨年5月に棄却され、判決が確定した。
 つまり、これでイスラム教徒にかぎって、警察による監視捜査に最高裁がお墨付きをあたえたということになる。もはやイスラム教徒にはプライバシーはなくなった。
 これは昨年の出来事だが、恥ずかしながらぼくはこの報道をみた記憶がなく、この記事で初めて知った。念のために断っておくが、この件は「共謀罪」法とはまったく関係のないところで、司法によって認められていたということである。
 
 アメリカでも同様の捜査が行われていた。2011年、ニューヨーク市警によるニュージャージー州、ニューヨーク州のイスラム教徒の監視捜査が発覚した。両州で憲法違反を問う裁判が起こされ、ニュージャージー州では2015年、控訴審判決で「信仰で捜査対象を選ぶのは違憲の恐れがある」とイスラム教徒側の実質勝訴となり、ニューヨーク州では2016年、市は宗教を理由とした捜査を禁じるとする和解に合意した。ネット上にもう少し詳しい情報があった。「ニューヨーク市警は今後、宗教や人種に着目したプロファイリング捜査はしない」「警察内部に民間の監督官を入れ、人権侵害的な捜査についてチェックさせる」ということのようだ。
 日本の最高裁は、警察によるイスラム教徒に対する監視捜査を認めたが、現実にイスラム教徒によるテロ事件が起きているアメリカでは、イスラム教徒への監視捜査を違法としたのである。裁判所が機能していない日本とはいえ、さすがにこんな捜査は違憲とされるものと思っていたが、ぼくの認識が甘かった。この件に関してアメリカは日本よりもまっとうなようだ。もっともアメリカにしても、現場の実態はわからないのだが。

 そんなアメリカでは新たな動きがあった。2017年1月27日、就任間もないトランプ大統領は、イスラム圏7カ国からの入国を90日間禁止、すべての国からの難民受け入れを120日間凍結する大統領令に署名した。イスラム教徒の入国禁止である。監視捜査どころの話ではない。すでに発効されていた6万人のビザが無効となったほか、一部の日本人も入国拒否されるなどの混乱が生じた。
 アメリカは自治や司法がまだ機能していた。3日後にはワシントン州が合衆国憲法に違反するとして大統領令の無効を求めてシアトル連邦地裁へ提訴。数日後には同連邦地裁が、違憲性など最終判断するまで全米での大統領令の執行停止を命じた。さらに政権側の上訴をへて2月9日、サンフランシスコ連邦高裁は地裁命令支持を決定。ここまでわずか2週間あまり。この早さには驚くほかない。
 トランプ政権は上告せずに3月6日、イスラム圏6カ国からの入国禁止を柱とする新たな大統領令に署名した。前回の大統領令からイラクをのぞき、ビザや永住権所有者は対象外とされた。8日にハワイ州が執行差し止めを求めて連邦地裁に提訴、15日に連邦地裁は執行停止を命じ、全米で適用となった。政権側は即座に連邦高裁に上訴、連邦高裁は連邦地裁の判断支持。政権側が上告、6月27日、連邦最高裁は中間判断を示した。10月の最終判断までの間、イラン、リビア、ソマリア、スーダン、シリア、イエメンの6カ国を対象とし、アメリカへのビザ保有者、国内に親族がいる者をのぞいて入国を禁止した。大統領令の執行開始は最高裁判断から72時間後、29日午前とした。トランプ大統領が歓迎のコメントを出したのはいうまでもない。
 連邦最高裁は9人の判事で構成されるが、この4月、欠員だったひとりにトランプ大統領が保守系の判事を指名したことが今回の判断に結びついたようだ。最高裁判事は大統領の指名によるが、任期は終身とされ、辞職か弾劾裁判での解任以外にはクビにもできない。最高裁判事の欠員は、トランプ大統領にとってまったくラッキーなタイミングだった。
 しかしながらこの最高裁の判断で、入国を認める親族の範囲をめぐって新たな訴訟が起こされている。

 この一連の訴訟で興味深いのは、自治体が国を提訴していることである。日本でも企業や個人が国を提訴するという例は少なからずあるが、自治体が国を提訴することはほとんどない。おそらく、理不尽にも政府から虐められつづけている沖縄県以外にはみられないだろう。また日本と比較して審理が早く、即座に執行停止になることにも驚くが、東大教授宇野重規氏が「米国の立憲主義」(『東京新聞』2017年2月26日付)で解説してくれていた。
 まず宇野氏は、トランプ大統領本人や彼を支持する世論には、アメリカ独自の連邦制と三権分立に対する無知と誤解があることを指摘したうえで、次のようにつづける。
 「米国においては連邦よりも州の方が、歴史が古い。州はその主権を保持しており、連邦憲法に認められた権限だけを連邦に委ねているにすぎない。連邦がやりすぎたと思えば、州は違憲訴訟を起こすことを躊躇しないのである」。すべて理解できたわけではないが、州のもつ権限の重さだけは理解できる。
 さらに「厳格な三権分立」をあげ、その背景にあるものとして「立憲主義の思想」をあげる。大統領令であろうが、たとえ民主的な手続きを踏んだものであれ、権力が下した判断が個人の人権を不当に侵害することは許されないという。
 「裁判所による大統領令の一時停止は、立憲主義と民主主義の衝突を意味する。いわば立憲主義が一つのストッパーになって、民主主義の暴走を防ぐのである」
 つまり一連邦地裁の判断といえども、暴走気味な大統領令を全米の範囲で停止させる権限が認められているのだ。

 トランプ大統領の大統領令について、イスラム教国はもちろんのこと、ドイツのメルケル首相、フランスのオランド大統領(当時)が相次いで反対の立場を表明するなかで、「入国管理政策はその国が判断すること」とさらりと答えたのは、わが安倍晋三首相だった。
 そういえば、日本の難民認定は世界でもっとも厳しい部類のようだし、三権分立は「厳格」とはほど遠い状態である。安倍首相は「「立憲主義は権力をしばるものという解釈は古い」と胸を張ったこともあった。
 日本では、政府にとって有利な判決に導くために裁判官を異動させることなど当たり前に行われる。政府に不利な判決を出す裁判官は出世させず、上級裁判所では政府寄りの判決が出るのも当然の成り行きであり、検察審査会の判断にも政権が裏から手をまわす。違憲審査は最高裁判所が行うが、日米安保条約・日米地位協定など政治性がともなう国の政策や行為については最高裁は判断しないため(統治行為論)、憲法は完全に空文化している。

 隣国韓国では重要な裁判があった。この3月、朴槿恵[パク・クネ] 大統領(当時)は、友人による国政介入疑惑により国会に弾劾され大統領権限停止、憲法裁判所の8人の裁判官の全員一致により弾劾相当と判断され、罷免決定、失職した。その後収賄の疑いで起訴され公判がつづいている。
 ある在日韓国人がテレビの街頭インタビューでこんなことを話していた。「韓国は世界に恥ずかしい姿をみせてしまった。これからはしっかり頑張りたい」。日本で暮らすひとだから日本の実情をよく理解したうえでの発言だろうが、ぼくらはまだこんな言葉を吐くことができない。羨ましいかぎりである。
 2013年5月、ジュネーブの国連拷問禁止委員会で、モーリシャスの委員(元判事)が、日本での取り調べには弁護人が立ち会えないことを指して「(日本の刑事司法は)中世レベル」と発言し、日本の人道人権大使が「日本は人権先進国だ」と開き直って失笑を買ったことがあった。なにかにつけて、このことを思い起こしてしまうのだ。
 日本はあらゆるしくみを根本からつくり変える必要があるのだろうが、それをやり遂げられるのかどうか、はなはだ疑わしい。少なくとも政治家を除外し、国会とは別の場での議論、決定でないと、まともなものはできないだろう。 (2017/07) 

<2017.7.20>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第58回:朝鮮学校をめぐって

 JR十条駅近くを歩いていたところ、30代くらいの女性から道を尋ねられた。東京朝鮮中高級学校へ行きたいのだという。偶然知っていたので教えられたが、前回の記事中に「在日韓国人」という言葉を使ったことを思い出していた。
 あのときは、深く考えることなしに「在日韓国人」と書いていた。道を聞かれたついでに朝鮮学校について調べてみると、ネット上に横浜市の神奈川朝鮮中高級学校を取材した良心的な記事「朝鮮学校のいま─『在日』生徒たちの胸の内」(「Yahooニュース」2017年4月27日配信)があった。その記事を参考にしつつ、朝鮮学校をめぐる最近の動きをまとめてみたい。

 「在日韓国・朝鮮人」「在日コリアン」という呼び方があるが、南北分断以前の朝鮮半島から日本にやって来たひとびとということで「在日朝鮮人」と記すことにしたい。これがもっとも素直な言い方のように思われた。いま、これらのひとびとの国籍は「朝鮮籍」と「韓国籍」に分かれ、北朝鮮は日本と国交がないので「北朝鮮籍」はないという。
 もう少し正確に記しておきたい。1910(明治43)年の日韓併合後、日本統治下の朝鮮半島から徴用あるいは仕事を求めて日本にやって来たひとびとはみな日本国籍だった。しかし日本の敗戦時、多くのひとびとは朝鮮半島に帰るが、日本に生活基盤をもっていたり、その他の事情から日本に残ったひとびともいた。そういったひとびとは、1947年の外国人登録令により日本国籍から朝鮮籍へと国籍が変わった。
 一方、朝鮮半島は北半部と南半部が別々の道を歩むことになり、1950年には日本と国交を結んだ「韓国籍」への移行が奨励され、「朝鮮籍」から「韓国籍」へと変えるひとが増えていった。いまでも「朝鮮籍」のひとは、それぞれの事情や考え方で国籍を変えなかっただけのことで、とくにいまの北朝鮮と関係があるわけではないと思われる。

 日本の敗戦時に日本にとどまった朝鮮半島のひとびとは55万人といわれる。そういうひとびとやその子どもたちがいつ祖国に戻っても困らないように、朝鮮語を学ぶ場としてつくられたのが朝鮮学校である。貧困にあえぎながらも、1946年10月までに日本各地につくられた朝鮮学校は500校を超えたという。
 1948年に朝鮮半島が北朝鮮と韓国に分断されたとき、朝鮮学校の運営母体だった在日本朝鮮人連盟(朝連)は北朝鮮支持を打ち出し、GHQ占領下の日本政府は朝連の解散と朝鮮学校の閉鎖を指示する。そんな状況下で、教育援助金によって朝鮮学校を積極的に支援し、再建してきたのが北朝鮮政府で、現在でも朝鮮学校全体に対して年間1億円の援助金があるという。
 松山猛氏の『少年Mのイムジン河』(木楽舎、2002年)には、そんな時代の朝鮮学校生と日本の少年たちの交友が描かれている。舞台は1950年代半ばから60年代の京都。著者は中学生のとき、朝鮮中学校の友人を通して歌「イムジン河」と出会い、まだアマチュアだった仲間のザ・フォーク・クルセダーズにその歌を紹介する。それは、著者と在日朝鮮人をめぐるながい物語のはじまりとなった。そして本書刊行7年前のこと、著者は新たに親しくなった在日朝鮮人の案内でイムジン河の畔にたたずみ、半世紀におよぶ物語を語り終える。

 日本には多くの外国人学校があって、海外にも日本人学校がある。その日本人学校と同様、日本にある外国人学校は本国の教育体系にしたがった授業を行い、母国の言語や歴史も学んでいる。それは朝鮮学校に限ったことではない。
 在日朝鮮人のほとんどは日本の普通の学校に通っていて、朝鮮学校に通う子どもは圧倒的に少数派だという。それでも現在66校の朝鮮学校があり、わずかながら韓国学校もある。どの学校に通うかは親や本人の考え方次第で、海外在住の日本の子どもが日本人学校に通うかどうかという場合と違いはない。
 多くの外国人学校同様、朝鮮学校も各種学校という扱いだが、北朝鮮は日本と国交がないうえに、拉致問題などもあって良好な関係にあるとはいえない。そういう北朝鮮政府からの支援をうけている朝鮮学校は、他の外国人学校と同等に扱われているようには感じられない。
 神奈川朝鮮中高級学校は日本の中学、高校に相当する学校で、在日4世になる生徒たち174人(2016年度)が学ぶ。国籍は韓国籍が63%、朝鮮籍が32%、日本国籍が5%だが、みんな日本で生まれ育っている。教室の前方には故金日成、金正日の肖像が掲げられ、「民族教育が困難な時代に学校を支えてくれたことに対する感謝の気持ちから」だと金龍権[キム・リョンゴン]校長は話す。
 さらに、こうも述べている。「朝鮮は長い間、大国のいろいろな侵略とか、そういう歴史的経験があるわけです。その中で自主的に、自分たち民族の尊厳を持って生きていく。在日の教育でもそういう理念があり、連綿と続いている。(同じ朝鮮半島出身者やその子弟であっても軸足は)朝鮮民主主義人民共和国(の側)にある、と私たちは思っているわけですよ」
 取材に応じてくれた4人の生徒は、韓国籍が3人、朝鮮籍がひとりだったが、4人とも祖国は北朝鮮だと思っているという。それは先祖の出身地が現在のどちらの国に属するかとも関係なく、国籍はさまざまであっても軸足は北朝鮮にあるということのようだ。
 教科書は日本の学習指導要領に基づいているが、朝鮮語、日本語、朝鮮の歴史といった授業もある。朝鮮語での授業が原則だが、生徒同士の会話には日本語も交じるという。みんな母語は日本語なのだ。

 ところで、2010年4月より高校授業料無償化制度がはじまった。外国人学校も対象とされていたが、審査のさなかに起きた北朝鮮による韓国への砲撃事件(延坪島砲撃事件)の影響で朝鮮学校の審査手続きは中断、自民党へ政権交代後の2013年2月には対象外とされた。朝鮮学校を「在日朝鮮人総連合会(朝鮮総連)や北朝鮮との密接な関係が疑われ、就学支援金が授業料に充てられない懸念がある」とし、文部科学省令を変更したのである。
 この無償化制度による国からの就学支援金とは別に、朝鮮学校を各種学校として認可している28都道府県から学校への補助金、市区町からの保護者向けの補助金がある。東京都の猪瀬直樹知事(当時)は2010年に、大阪府の橋下徹知事(当時)も2011年度以降の支給をとりやめるなど、他の自治体でも支給凍結や打ち切りが相次いだ。ちなみに現在、東京都や大阪府、大阪市は支給停止中、東京23区は支給を継続している。
 さらに国は2016年3月、28都道府県に対して「補助金の公益性や教育振興上の効果の検討、補助金の趣旨や目的に沿った適性かつ透明性のある執行の確保を求める」という内容の通知を送った。文部科学省は補助金の「停止、減額を促す意図はない」としているが、明確な指示のない曖昧な通知に自治体は困惑したものの、影響は小さくはなかった。2017年度は16都府県が予算を計上していないという(『朝日新聞 DIGITAL』2017年8月6日付)。
 こういう動きに対して訴訟が起こされていたが、今年になって相次いで地裁の判断が下された。1月26日、大阪地裁(山田明裁判長)は、大阪府の補助金不支給を「裁量の範囲内」と認めた。7月20日、広島地裁(小西洋裁判長)は、朝鮮学校と朝鮮総連、北朝鮮との関係から就学支援金の流用を懸念する国の主張を追認。7月28日、大阪地裁(西田隆裕裁判長)は、国が無償化の対象外とする省令改正をしたのは「拉致問題の解決の妨げになり、国民の理解が得られないという外交的、政治的意見に基づいたもの」と指摘したうえで、「教育の機会均等の確保とは無関係なもので、法の趣旨を逸脱しており違法、無効」とした。どの裁判もまだつづいている。
 こうした現状について「Yahooニュース」の記事で、一橋大学名誉教授で在日外国人の権利拡大の活動にかかわってきた田中宏氏が次のように述べている。
 「(外国人学校の)教育内容に関し、政府や地方行政は基本的に介入しない。それが原則です。朝鮮学校が問題だと言い始めたら、じゃあ、『南京虐殺について中華学校の教科書はどう書いているのか』『アメリカンスクールでは原爆投下をどう扱っているか』となっていく。北朝鮮と日本の対立は政治外交の問題なのに、対北朝鮮の関連では何をやってもいい、という雰囲気が日本にはある。政治外交的な問題なのに、学校で差別する、排除する、それをやっているわけです」
 2013年に国連の社会権規約委員会が、その翌年には国連の人種差別撤廃委員会がこうした措置の改善を勧告したが、日本政府に応じる姿勢はない。国連はこの問題とは切り離して、北朝鮮に対する制裁決議をしているのだが、日本政府は拉致問題に進展がないことをあげて、政治外交の問題と一緒くたにしているように思える。

 ここで冒頭にかえりたい。JR十条駅近くで道を尋ねられた日、東京朝鮮中高級学校の正門はひとの出入りが多かった。『東京新聞』(2017年8月6日付)によると、同校OBでプロサッカー選手の安英学[アン・ヨンハ]氏(朝鮮籍)の同校企画による引退試合が校内のグラウンドで行われ、500人ほどが集まっていた。安選手はかつてアルビレックス新潟に所属していたことから、新潟からも20人以上のファンが駆けつけたという。道を尋ねた女性もそんなひとりだったのかもしれない。安選手はJリーグ、韓国Kリーグ、北朝鮮代表として活躍し、昨年退団した横浜FCが最後となった。まだ38歳である。
 新潟に入団した当時、新潟港には北朝鮮から万景峰[マンギョンボン]号が入港していたが、練習場で男性サポーターからかけられた「拉致問題とヨンハとはなにも関係もないんで頑張ってください」という言葉に救われたという。ボールを蹴って、緊張する3国を渡り歩いてきた15年の選手生活だった。 (2017/08)

<2017.8.13>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第59回:沖縄とニッポン

 沖縄をめぐる最近の動きをまとめておきたい。
 8月21日、アメリカのサンフランシスコ連邦高裁は、日米の環境保護団体がジュゴン保護のため辺野古新基地建設工事の中断を求めた訴訟で、アメリカの裁判所には工事中止を求める権限がないとして訴えを退けた一審の判断を破棄し、サンフランシスコ連邦地裁へ差し戻した。
 この裁判は2003年、ジュゴンを筆頭に日本の環境保護保団体、法律家団体、アメリカの団体などが原告となって、絶滅危機にあるジュゴンを保護するために辺野古新基地建設の中止を、アメリカ国防総省を相手にサンフランシスコ連邦地裁に訴えたものである。
 アメリカの文化財保護法では、アメリカが外国で活動する場合、相手国の法律で保護されているものであれば、アメリカも守らなくてはならないとしていて、この法律を、日本の文化財保護法で国の天然記念物に指定されているジュゴンに適用したものだった。連邦地裁は2015年、日米政府間の協定に基づく工事の中止を命じる「法的権限がない」と判断し訴えを棄却、原告側が上訴していた。
 今回の判決によって原告が国防総省を訴える権利が認められ、地裁では新基地建設でジュゴン保護の義務が尽くされているか再検証を迫られる可能性が出てきたという。また原告側の弁護士によれば、アメリカ政府が文化財保護法に基づく保護手続きを終えるまで日本政府による建設先米軍基地への立ち入りを認めないよう求めていて、原告側が勝訴すれば建設工事は止まるとしている(『東京新聞』2017年8月23日付/『沖縄タイムス』「社説」同日付などによる)。

 日本政府は今年の2月、沖縄本島北部と西表島、奄美大島、徳之島からなる地域について、世界自然遺産としてユネスコに推薦書を提出、2018年夏の登録を目指している。『東京新聞』(2017年9月7日付)によると、世界自然遺産登録の可否を勧告する国際自然保護連合(IUCN)は、今秋行われる現地調査の際に辺野古の環境問題について日本側と議論が必要と沖縄県に伝えていたことが6日にわかったという。これは沖縄県からIUCN側に対して要請した日米両政府への基地建設断念の働きかけについて、事前審査を担当する責任者名で回答が寄せられたもので、日本の関係機関を交えての会合の開催を調整するよう促してきたという。

 8月31日、国際平和団体「国際平和ビューロー」(IPB)は、「オール沖縄会議」に対して、2017年のショーン・マクブライト平和賞を授与することを決定した。
 オール沖縄会議の正式名称は「辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議」。政党、財界団体、労働組合、市民団体からなる辺野古新基地建設阻止を目指す組織であり、翁長雄志[おなが たけし]知事の支援母体ともなっている。
 他方IPBは1891年にスイスのベルンに設立された団体で、現在本部はドイツのベルリンにあるようだが、積極的な平和活動が評価されて1910年にノーベル平和賞を受賞している。ショーン・マクブライト平和賞は、アイルランドの政治家で元IPB会長ショーン・マクブライト氏の功績をたたえて1992年に設けられた。平和や軍縮、人権の分野で活躍した個人・団体に贈られ、日本では日本原水爆被害者団体協議会(2003年)、平和市長会議(現平和首長会議、2006年)が受賞している。今回のオール沖縄会議は「たゆまぬ軍縮への業績と、軍事化と米軍基地に反対する非暴力的な必死の頑張り」が評価された(『東京新聞』2017年9月1日付/『朝日新聞』DIGITAL、同日付による)。

 そして辺野古の抗議活動にて、沖縄平和運動センター山城博治議長が威力業務妨害の罪に問われている刑事裁判で、那覇地裁(柴田寿宏裁判長)は9月4日、国連特別報告者デービッド・ケイ氏の報告書、国連人権理事会が市民の抗議活動で許容される基準を定めたガイドライン(指針)など、弁護側による証拠請求の一部を却下した。
 国連のガイドラインでは、長期的な座り込みや場所の占拠は「集会」という扱いで許容するように提言していて、辺野古や高江での政府側の警備活動はガイドラインに反したものとされる(『琉球新報』同年9月5日付)。

 記事の紹介に多くを費やしてしまったが、辺野古新基地建設が国際的な話題になってきていることを実感した。とくにジュゴン訴訟の連邦高裁判断は日本ではなかなか出にくい判断だと思うが、か細いながらも、光が差し込んだ思いがした。
 ただ気になるのが審理に要する時間である。2003年提訴で連邦地裁が棄却したのが2015年。上訴をへて高裁の判断が出るまでさらに2年を要している。こんなペースでは工事はどんどん進んでしまう。地裁の2回目の判断が出るのはいつになるのかと心配になる。それでもかすかな望みがみえてきたことを素直に喜びたい。
 2番目の国際自然保護連合の反応はいいニュースには違いないのだが、推薦書を提出した日本政府に対して、IUCN側がもっと強く動いてくれないものであろうか。これでは立場の弱い沖縄県を叱咤しているように思えてくる。
 オール沖縄会議の国際的な平和賞受賞の報道にも驚いたが、その抗議活動の中心となっていた山城氏の裁判では、世界基準からずれている日本の司法の姿を露わにしたことを実感する。この裁判を通して日米軍事同盟の実態、沖縄県の米軍基地問題や司法のあり方をふくめてひろく国際的に認知されることを望みたい。いまの日本では沖縄の民意が国会の多数派になることは絶望的な状況である。海外から盛り立てていくしかないように思う。
    *
 この8月、作家の辺見庸、目取真俊両氏の対談『沖縄と国家』(角川新書、2017年)が出版された。本欄の「55.沖縄の平和主義」でもちょっぴり紹介した『琉球新報』『沖縄タイムス』(2017年4月16 日付)に同時掲載された対談の全容をまとめたものである。
 目取真氏は小説家であるが、辺野古の大浦湾でカヌーに乗って連日抗議活動をつづけ、昨年は海上保安庁に逮捕された。自身のブログ「海鳴りの島から」で、抗議活動の紹介もしている。
 全体の印象としては辺見氏が聞き役・引き出し役に回って、目取真氏が一方的に話しているように感じられるが、重く衝撃的な内容が多い。
 11歳だった目取真氏が、いつものように小学校に出かけると特別のホームルームが行われ、「今日からみなさんは日本人になりました」と教師から告げられた。1972年5月15日、沖縄返還の日である。
 「日本人になったのだ。いや、本当に日本人になったのか? 日本人になれたのか? 私は、と口にして、日本人である、と言い切ることができない」と記す。
 このエピソードを皮切りに、目取真氏は日本本土と沖縄の間の溝のようなもの、潜在的に日本人の中にあったと彼が指摘する沖縄への差別意識について、執拗に突きつけてくる。さらに、鉄血勤皇隊として14歳で銃を手に動員された父が体験した沖縄戦を通して、目取真氏の日本に対する不信感は小さくはない。
 目取真氏や山城氏が、辺野古の現場で体験している抗議活動をつぎのように紹介する。
 「機動隊に殴られようが蹴られようが、引きずられてアザができようが、歯を食いしばって座り込んで米軍車両を止めれば基地機能をストップできるという覚悟。非暴力は自分は痛い目に遭わないということではない。どんなに痛い目にあっても非暴力を貫くというのは大変なこと。機動隊や海保は周囲にメディアの目がなければやる。琉球新報と沖縄タイムスの望遠レンズがむいているから抑制している」
 そして、つぎのようにくくる。
 「沖縄の反基地運動が大きくなって海兵隊が撤退する、となったら、ヤマトゥのメディアや市民の反応は大きく変わる。反基地運動をつぶそうという動きが露骨になるだろうし、最後には自衛隊が出てくる。沖縄の自衛隊は反基地暴動が起こったときに鎮圧するために置かれていると思う。(中略)いざというとき権力は容赦しません。機動隊に殴られ、海保に海に突き落とされて海水を飲まされたらわかります。おめーら、まだ手加減してんだぞ、あんまり調子こいてんじゃねーぞというのが、彼らの本音です」
 この結果が山城氏の微罪による逮捕、長期拘留である。沖縄の米軍基地を本土に引き取る運動もあるが、目取真氏は「そんな夢物語のようなことをしている間に工事は進む」と述べ、そんな時間があるなら現場に来て裏方の仕事でも手伝ってほしいと訴える。
 日本人の8割近いひとびとは日米安保条約によって定められた米軍基地が必要と考え、目取真氏が本土で行う講演の質疑応答では「やはり日本全体のために沖縄に基地があるのはやむを得ない」と発言する人も多いという現実がある。
 辺見氏は「おわりに」で、「わたしには確信がない。沖縄がニッポンであるべきかどうかについて」と記す。
 9月10日夜放送の「NHKスペシャル」では、米軍統治下の沖縄に1,300発の核兵器が配備されたうえ、那覇空港では核ミサイルの誤射事件まであった事実が明らかにされた。いま「核武装論」や「核配備論」が語られるようになっているが、核が持ち込まれるとすれば、やはり沖縄ということになるらしい。 (2017/09)

<2017.9.15>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第60回:衆議院議員選挙の陰で

 いよいよ衆議院議員選挙が公示された。そもそも必要とも思えなかった選挙だが、衆議院が強引に解散されてしまったからには嫌でも逃げるわけにはいかない。安倍晋三首相から売られた喧嘩とでも受け止めるしかない。その公示2週間ほど前から希望の党、立憲民主党などをめぐって新聞・テレビは騒がしかったが、その陰ではほとんど取り上げられることのない重要な事案も進行中だ。
 東京高裁にて砂川事件の再審請求の審理がつづいているのだが、その判決を今年5月に下すことが原告側に通告されていた。それがいまだに出されていない。58年前に最高裁によって下された判断が改めて問われる重要な裁判である。普通に考えれば最高裁側に不利な状況なのだが、いつ判決を出すべきかと、東京高裁は政局をながめつつ思案していたのであろう。しかしその間に夏が過ぎ、秋の気配が……気がついたら衆議院解散である。東京高裁は頭を抱えているように思えてならない。
 以下は、おもに『東京新聞』(2015年11月8日付、2016年3月9日付)、元山梨学院大学教授布川玲子氏の講演レジメ「砂川事件と田中耕太郎最高裁長官」(2014年6月23日付)、その他のブログによってまとめてみた。

 発端は1959年12月に下された砂川闘争の最高裁判決である。
 1955年から60年代まで、東京都下砂川町(現立川市)にあった米軍立川基地の拡張計画に反対する住民運動が砂川闘争である。住民運動とはいえ住民だけではなく大学生、労働組合関係者も加わった、60年安保闘争につながることになる運動だった。
 1957年7月、この砂川闘争のなかで米軍基地内に侵入したとして学生や労組関係者7人が、日米安保条約に基づく刑事特別法違反の罪で起訴された。この裁判において1959年3月、東京地裁(伊達秋雄裁判長)は「駐留米軍は外国に軍隊を出動し得る。米軍駐留は日本政府の要請や土地の提供、費用負担などがあって可能。憲法第九条二項で禁止されている戦力保持違反だ」として被告全員に無罪を言い渡した。一般に「伊達判決」と呼ばれている。
 これに対し検察は高裁を飛ばし、最高裁に上告(跳躍上告)。同年12月の最高裁判決(大法廷、田中耕太郎裁判長)では、「安保条約のような高度の政治性を有するものは、裁判所の判断になじまない」として東京地裁の判決を破棄した。その後差し戻し審をへて1963年12月、被告全員の有罪が確定した。
 
 それから45年も過ぎ、2008年から2011年にかけてジャーナリストの新原昭治氏や末浪靖司氏によるアメリカ国立公文書館での調査、また2013年の布川玲子氏によるアメリカの情報自由法(Freedom of Information Act)に基づく開示請求によって、砂川事件関連の重要な資料がつぎつぎと発見されることになった。
 それは当時のマッカーサー駐日アメリカ大使が本国の国務省に送った、1959年11月5日付の公電その他の公文書などである。米軍駐留の合憲性が問われている裁判の判決前に田中最高裁長官がマッカーサー大使と非公式に会談し、跳躍上告のアドバイスをもらったほか、マッカーサー大使に対して判決の見通しや、大法廷の15名の裁判官による詳細な評議内容、口頭弁論の時期などを伝えていたことが明らかになった。
 布川氏は、評議内容を部外者に漏らすことを禁じた裁判所法に違反し、司法権の独立を規定した日本国憲法にも違反するとし、砂川判決自体を「無効」と指摘している。
 田中最高裁長官の政治的な動きは以前より指摘されていたことで、当時の被告のひとりで「伊達判決を活かす会」共同代表でもある土屋源太郎氏は、2009年に最高裁に日本側の関連情報の開示を求めたが文書は存在しないとして退けられていた。まさに、その動かぬ証拠がアメリカ国立公文書館に保管されていたのである。

 土屋氏らは2014年6月、米公文書などの新証拠3通を添え、「公平な裁判を受ける権利が侵害された」として東京地裁に再審請求、免訴の判決を求めた。しかしながら2016年3月、東京地裁(田辺三保子裁判長)は「裁判官が一方の当事者のみに事件に対する考え方を伝えることは、一般的には慎まれるべき不相当な振る舞いだ。また評議の秘密を漏えいしたとは評価できず、弁護側の新証拠は、免訴を言い渡すべき証拠とはいえない」として、再審請求を却下した。
 この判決について、砂川事件に詳しい龍谷大法科大学院の石埼[いしざき]学教授は、「裁判所に求められた公平さをかなり緩やかに解釈していて、今後の司法に悪い影響を与えるのではないか」と述べるほか、外交評論家で「伊達判決を活かす会」の一員でもある天木直人氏は次のように記している。
 「軽率にも、東京地裁は2016年3月の棄却判決の中で、米国の極秘文書の存在を認めてしまった。門前払いにすればよかったのに、極秘文書を認めた上で、田中耕太郎最高裁長官がマッカーサー米国駐日大使と会ったことは、単なる社交だったという見え透いた詭弁を弄した。こんな詭弁を高裁や最高裁が繰り返せるはずがない。真面目に審理すれば、この国の司法が歪んでいる事を認めざるを得なくなる。もはやこの国の司法は、砂川事件再審請求訴訟から逃げられないのだ」(「天木直人氏ブログ」2017年8月26日付)

 原告の上訴をうけた東京高裁は、2017年5月に判決を下すとしていた。しかしながら連絡が来る気配がないため、8月末に担当弁護士が高裁に問い合わせたところ、「何を検討しているか明らかにしないまま、『当初の予定より検討に手間取っている。出来るだけ早期に決定する』とだけ連絡があった」という(「天木直人氏ブログ」同年9月26日付)。
 要するに加計学園運営になる岡山理科大学獣医学部新設問題と同様である。衆院選で政権与党側に不利な影響を与えそうな認可や判決は、開票後に先延ばしにするということである。いかにも日本の司法らしいが、そんなことでよいはずがない。高裁の判断がどんなものであれ原告・検察どちらかが上告することになり、最高裁の判断を仰ぐことになる。先の石埼氏も最高裁自身が検証すべきものとしている。
 「砂川裁判の最高裁判決は、高度に政治的な性格をもつ問題は裁判所の判断の対象外とした『統治行為論』を初めて採用したにもかかわらず、日米安保条約と駐日米軍を合憲だとした歴史上、非常に重要な、かつ矛盾した司法判断だ。判決が出るまでに何があったのかや、当時の最高裁にゆがみがなかったか、真実を究明する意味でも再審請求には大きな意義があるが、そもそも最高裁自身が検証すべきだ」

 1959年12月の「高度の政治性を有するものは、裁判所の判断になじまない」とした最高裁判決は、戦後日本の不幸はここからはじまったともいえるほどの重要な判決である。それ以来、日米安保・日米同盟に関わる裁判はすべてこの判例にそって退けられることになるが、それは最高裁が憲法判断をしないことをも意味した。
 日米安保・日米同盟に関わることであれば憲法違反は問われないということである。つい最近報道された岩国や横田の米軍基地の騒音訴訟においても、日本政府に対しては賠償命令を出すが米軍機の飛行差し止めは認められない。10月11日に沖縄東村高江で米軍ヘリコプターが大破炎上したが、即座にその場は治外法権の現場となった。損害補償金はもちろん日本政府から支払われる。日本は独立国なのであろうか。主権はどこにあるのだろうか。
 もし1959年12月の最高裁判決が一審の「伊達判決」を追認し、駐留米軍を違憲としていたらどうなっていたであろうか。日本にはいまのような形での米軍基地は存在しない。沖縄の米軍基地問題も岩国や横田の米軍機の騒音問題もない。イラクやフィリピンのように駐留米軍を最小限度にとどめることができたはずだし、政治や司法の姿自体がすっきりとしたものになっていたのではなかろうか。

 そういう意味でも、今回の衆院選後の動きは気になるところだが、民進党の前原誠司代表によるクーデターで野党側は分裂、自公政権に有利な状況になってしまった。こうなれば、衆院選後の最悪のシナリオを覚悟しておくしかない。
 希望の党は空中分解して自民党と立憲民主党へ吸収される。自公連立政権は維持され、安倍首相が引き続き政権を担う。森友・加計疑惑は検察が動けずうやむやのまま、今回のテーマの砂川事件の再審請求も東京高裁も最高裁も一審を追認、請求却下であろうか。日米同盟はより強化され、自衛隊基地は米軍との共同使用がすすみ、オスプレイはじめ米軍機が全国的に展開することになる。憲法はいじくりまわされ、司法はより深い霧におおわれる。
 これはあくまでも最悪のシナリオであるが、これに近いところをいくのかもしれない。 (2017/10 )

<2017.10.18>

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