燈台物語

平松富士夫(ひらまつ・ふじお)
ノンフィクションライター

第2回 塩屋埼灯台2〜灯台と地震・津波、そして人間の死

 
地震でシャフトが折れ、点灯不能に――踊り場に簡易標識灯を設置

 2011年3月11日午後2時46分、巨大地震が東北地方太平洋沖で発生した。震源地近くで震度7強、マグニチュード9.0という大きさにも衝撃を受けたが、その後に襲ってきた津波が、さらなる衝撃をもたらすことになった。まるで生き物のように岩手県から福島県に至る海岸線を一気に呑みこみ、不気味な力で家屋、橋、車、船舶をあっという間に押し流していく映像を見せられると、得体の知れない自然の脅威にただただ呆然となるしかなかった。
 私が塩屋埼灯台を訪れたのは2月6日。地震発生のひと月ちょっと前のことである。灯台は、太平洋に向かって張り出した岬の台地で凛々しい姿を誇っていた。写真はそのときに撮ったものだが、今回の地震・津波の影響を受けたのだろうか。
 もちろん無傷ではなかった。
 海上保安庁によれば、幸いにして、海抜50メートルの位置に立つ灯台は津波の影響を受けることはなかったということだが、地震による損傷はやはり被っていた。灯火のレンズを回すギアのシャフトが折れて点灯できない状態に陥り、代わりに、上部、外の踊り場部分に簡易の標識灯を設置して海を照らしているという。4月23日現在、灯台への立ち入りは禁止、観覧は中止されていた。
 歴史を振り返ってみよう。塩屋埼灯台は過去にも、地震の被害に遭っている。最初の塩屋埼灯台が完成したのは1899年(明治32年)12月15日。このときの灯塔の高さは30メートル、円形のレンガ造りで外観は黒白の横縞で塗り分けられていた。しかし、1938年(昭和13年)11月5日に発生した地震によって大きな被害を受けた。震源地は福島県東方沖でマグニチュード7.5。灯器、レンズが壊れ、灯塔にも亀裂が生じたために爆破による取り壊しの憂き目に遭っている。その後再建されたのは1940年3月30日。これが現在まで続いている、円形コンクリート造りで白亜の塩屋埼灯台である。
 だが、この白亜の灯台も茶色と灰色の迷彩色に塗り替えられていた時期がある。説明するまでもないが、太平洋戦争中のことで、敵機からの襲撃を避けるためであった。そして戦いが激しくなった1944年、それも終戦の5日前、敵機による襲撃によって21歳の若い職員が命をなくしている。その迷彩色が本来の白亜に塗り替えられるのは、戦後の1947年。さらに1950年4月に、戦災復旧工事が行われ、その後も必要に応じての改修を経て現在に至っている。
 地上から頂部までの灯塔の高さは27.32メートル、地上から灯火までは23.6メートル。ということは、海面から灯火までの高さは73.6メートルもある計算になる。
 現在、大地震の影響でその機能を中断している灯火だが、本来の灯質は15秒に1閃光の大型単閃白光で、光度は44万カンデラ、光達距離は22海里(約40.7キロメートル)だった。
 今回の大震災では、地震はもとより津波の恐ろしさを改めて実感させられることになったが、私も、遠い記憶の底から、先人たちの声を甦らせることになった。
塩屋埼灯台の灯火部分踊り場から見た太平洋


 
今から65年前の南海道大地震による津波の教訓

 物心がついた頃、私たち子供連中は、両親や近所の年寄りから、「地震がきたら、そのあと必ず津波がやってくるから、すぐに山に駆け上れ」「よけいなものを取りに戻ったりしたらあかん。死にたくなかったら山の上を目指せ」と耳にタコができるほどに聞かされてきた。
 そのとき、必ず、「●●さんとこの■■さんは貯金通帳を取りに戻って津波に巻き込まれたんや」という話が付け加えられ、「命と金、どっちが大事かよう考えとけ」「命がありゃ、金はあとから稼げるけどやなあ、命なくしたらそれで終わりや」
 それでも、油断はできる。小さな地震はたびたび発生するが、津波はなかなかこない。そんな経験が繰り返されると、地震が発生しても、津波はくることはないだろうと拙速に判断する癖がついてしまう。
 小学校5、6年の頃だったろうか、例の映画館で映画を観ていたときに突然建物が大きく揺れ出した。これまでにない揺れである。観客は先を急いで外に出た。そのあと、私は仲間と一緒に自宅のある集落へと道を急いだ。すると、漁師集落のほうから必死に駆けてくる女性の姿が目に入った。母だった。血相変えていた。母は私たちの姿を見るなり叫んだ。「山に登れ。早く登れ」。私たちは、そのまま集落の背後にそびえる裏山を駆け上った。津波はこなかった。しかし、その後、両親や年寄り連中の「山へ登れ」という忠告は、半ば命令のようにしつこくなった。あのとき、津波が襲ってきていれば、私たちの命はなかったのだろう。そして母の命も。母は、そのことがわかっていながらも私を捜しにきていたのだ。
 私が生まれる4年ほど前、南海道大地震が発生した。1946年12月21日午前4時19分。震源地は紀伊半島潮岬南南西沖78キロ地点。深さ24キロ。マグニチュード8.0。津波が発生し、紀伊半島、四国、九州などに襲来した。この地震と津波による死者数は1443人で、そのうち和歌山県は269人、高知県679人、徳島県211人だった。
 太平洋戦争の敗北から1年半にも満たず、しかも年の瀬が押し迫ってきた頃である。人々が受けたダメージは相当なものだったろうことは察しがつく。
 S町町史にはこう記されている。
「敗戦によって人心極度に混乱し、世相極度に不安動揺している最中にとつじょ驚天動地の大地震、大津波が襲来したのであった」
 さらに、「津波は三回往復、第一の波は最大であったという。波高は三、四メートル、中には五メートルにも及んだ所があったという」
 池田茂一氏の談話は次のようになっている。
『わたしゃ平松の方をのぞきに行ったところ、平松の土場の松の木に登って大声で、「助けてくれ」と呼んでいる。よく見ると、岩田の半さんだった。夜が明けるまでああしていたんだろう。小山の賢四郎さんの母くにえさんが流され、死体の見つかったのは二人とも一週間後で、なにしろ海が永らく濁りかえっていたし、それに海藻が一面に流れてきているもんで、大方の死体は半月ばかりも見つからなんだ』
 そして、メモ書きのようなこんな記述も加えられている。
「一老人は、津波がやってくるから逃げるようにと警告して回った」
「人々は夢遊病者のように近くの山、高所へ寒中寝間着のまま逃げのびた」
 S署管内の被害の概要は、死者20人、行方不明者20人、罹災者4700、家屋全壊116、家屋半壊2、浸水706、壊船75――等々。町内の中心部を走る紀勢本線の線路はねじ曲げられていた。
 私が育った田舎の人々はこのときの恐怖の記憶を後世に伝えるべく必死になっていたのだった。

人間の死は、数ではなく、個人に還元されてこそ意味をもつ

 2011年3月11日、東日本、とりわけ東北地方にもたらした大震災は私の田舎の65年前の被害の比ではない。しかし、言えることは、個々の恐怖の体験は、地震・津波の規模の大きさだけで決まるものではないということである。それぞれの人がそれぞれに受けた衝撃の度合いに還元されるべきものなのだろう。
 ある者は近親者のすべてを失った衝撃に、ある者は傍にいた愛犬が黒い波に呑まれて消えていった衝撃に、またある者は倒壊した家屋の中に閉じ込められ救出のこない時間の長さに衝撃を受けて……。
 なぜか、私は、詩人・石原吉郎を思い出していた。
 日本が太平洋戦争に敗れ、自身が捕虜となってシベリアの収容所で過ごした経験をもつ石原がその著書『望郷と海』のなかで、人間の死についてこう触れている。
「ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、―時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、それは絶望そのものである。人間は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ」
 昨日、元気に顔を合わせ夢を語り合った仲間が、今日「死んだ」と聞かされたとき、人は何を思うだろうか。思うよりも先にその報が本当なのかどうか疑う。信じられないと思うだろう。
 信じられない出来事。不意に予期しないかたちで襲ってくる出来事。こんな出来事によってもたらされる死に遭遇すると、人間はことさら深い哀しみに包まれる。
 このとき、「死」は不条理なもの、理不尽なものとして生き残った人間の前に立ち上がってくる。
 石原は、記す。
「人間は死んではならない。死は人間の側からは、あくまでも理不尽なものであり、ありうべからずものであり、絶対に起ってはならないものである。そういう認識は、死を一般の承認の場から、単純な一個の死体、ひとりの具体的な死者の名へ一挙に引きもどすときに、初めて成立するのであり、そのような認識が成立しない場所では、死についての、同時に生についてのどのような発言も成立しない。死がありうべからざる、理不尽なことであればこそ、どのような大量の殺戮のなかからでも、一人の例外的な死者を掘りおこさなければならないのである。大量虐殺を量の恐怖としてのみ理解するなら、問題のもっとも切実な視点は即座に脱落するだろう」
 石原は、人間の死を、数ではなく、ひとりひとりの個人の死に還元されてこそ意味をもつのだと強調しているのだ。(続く)

多くの被害をもたらした東日本大震災。爪痕はまだ各地に残っている。上の写真は南相馬市(5月21日撮影)。

平松富士夫プロフィール

出版社勤務を経て、フリーのライターに。主にサイエンス関係の記事を書く。執筆を担当した書籍に『科学大事典MEGA』(講談社)『身体のしくみと病気がわかる事典』(日本文芸社)『面白いほどよくわかる深層心理』(日本文芸社)などがある。

灯台物語

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