漂流する日本人、行き詰まる人類

鰆木周見夫(さわらぎ・すみお)
哲学・思想・歴史 定価(1000円+税) 2014年3月14日発売

<内容紹介>
 2011年3月11日の大地震大津波による福島第一原発の事故が日本人ひとりひとりにもたらした詰問――本当に原発は必要なのか。世界で唯一の被爆国日本、広島・長崎の悲惨さを知る国がなぜ、原発大国に突っ走ってしまったのか。太平洋戦争の戦中戦後から初の商用原子炉導入に至るまでの政治家・科学者、そして国民の動向を心理的側面から分析し、人間の理性と本能の問題を提起。人間は理性をもつことができできる存在だが、その理性は下司な欲望を秘めた内なる本能に搦め手で攻められると敗れやすい。名誉欲、金銭欲、憎悪、嫉妬、敵愾心……。著者は、これまでの人類の歴史は理性が本能に敗れてきた歴史だとし、もし人類が総体において理性が本能を抑えてきていたのだとしたら、もっと違う世界が現出しているはずだと説く。そのうえで、真の理性を磨ききれなくなっている人類はやがて行き詰まるだろうと予言。その行き詰まりを回避するためにも、いまこそ必要なのは、ひとりひとりが「真の理性」「強い理性」を育てることだと強調する。電子書籍用書き下ろし。
〈目次〉
はじめに~いまこそ「真の理性」「力強い理性」を育てなければならないとき
第一章 人類の歴史は、理性が本能に敗れてきた歴史
 ■不都合な真実が露呈しそうなときにとる人間の三つの行動パターン
 ■理性には二種類ある――真性理性と偽性理性
 ■『生きる』ことを基盤に、さまざまな本能があらわれる
第二章 日本の原子力開発に見る「理性の敗北」
 ■戦後、巧みに誘導された「原子力→平和」のイメージ
 ■経験から学び、考えることで理性を獲得する――ヘーゲルの弁証法とカントの理論
 ■原発事故後に見られた人間行動の三パターン
第三章 科学者はなぜ政治に敗れるのか
 ■科学者が理性的な行動をするとは限らない
 ■油断すると、理性は本能に敗れる
 ■敗戦から二年後にあらわれた「原子力利用の風潮」
 ■一枚岩ではなかった〈科学者の国会〉日本学術会議
第四章 暗躍する政治家たち
 ■政治家がバラまいた科学者への甘いエサ
 ■原子力研究の再開に反対した広島大学三村剛昂教授
 ■科学者のうちに渦巻いている本能「研究欲望」
第五章 走り出した幻想「核の平和利用」
 ■米アイゼンハワー大統領の「核の平和利用」演説
 ■日本学術会議が提示した原子力研究三原則「自主・民主・公開」
 ■外からは放射能の洗礼、内では札束で頭を殴られた科学者
 ■アメリカが公にしたくなかった「不都合な真実」
第六章 湯川秀樹と坂田昌一の辞任問題
 ■加速化する政治主導の動き――「原子力は万能マシン?」洗脳される国民
 ■湯川秀樹が原子力員会委員を辞任
 ■ソクラテスの「無知の知」を思い起こさせる湯川秀樹の言葉
 ■日本学術会議の発言力を削ぐ「科学技術会議」構想
 ■問題点を置き去りにして進む原子力政策
 ■大勢に逆らい奮闘する物理科学者・坂田昌一
 ■深刻だったイギリス・ウィンズケールで発生した原子炉事故
第七章 日本最初の商用原発の安全性をめぐる攻防
 ■無視された坂田昌一の要望書
 ■坂田昌一の正論を肩書論にすり替えた中曽根康弘原子力委員長
 ■国会で再び議論の対象になった坂田問題
 ■神近市子の痛撃――合同審査は「家庭教師が入学試験をするようなもの」
 ■岡良夫の追及――実験証明なしの安全宣言は科学者にあるまじき態度だ
 ■東京大学・藤本陽一教授の指摘――原子力委員会専門部会の審査機構は機能しなかった
 ■原発事故の被害想定試算データの公表を封印した政府
 ■原子炉は本当に安全なのか――それは歴史が判断すると強弁した中曽根康弘
 ■このとき、日本学術会議会長は何をしたのか
 ■歴史が中曽根康弘の強弁を否定した
第八章 広島、長崎への原爆投下はなぜ避けられなかったのか
 ■原子の「連鎖反応」と「臨界質量」
 ■原爆の開発製造を諦めたイギリス
 ■具体的に動き出したマンハッタン計画
 ■ウラン235を使う銃型方式とプルトニウムを使う爆縮方式
 ■原爆使用阻止に動いたレオ・シラード
第九章 科学者の責任、政治家の責任
 ■理論が証明されるまで本能を抑えられない科学者
 ■一歩遅れた「理性」の復活
 ■ハイゼンベルクは意識的にドイツの原爆開発を遅らせたのか?
 ■マンハッタン計画から離脱した科学者ロートブラット
 ■ボーアに手紙を書いたアインシュタイン
 ■トルーマンの資質に疑問を感じていたアインシュタイン
 ■日本の原爆製造「ニ号研究」の中心人物・仁科芳雄
 ■仁科芳雄の「原爆製造は可能」の判断は正しかったのか
 ■トルーマンは名誉欲のために判断を誤った
 ■理想世界構築のためのひとりひとりの内なる本能との闘い

はじめに~いまこそ「真の理性」「力強い理性」を育てなければならないとき

 長い時間をかけてしまった。
 当初、一五年以上前に共著のなかで発表した『哲学の可能性~哲学で何が救えるか?』『縄文と弥生の文化攻防』『世界神話の類似性と「記・紀」神話の政治性』の三編に、書き下ろしの一編を加えて一冊にする予定だった。ところが、書き下ろしの一編の執筆を進めていくとなかなか終わらなくなり、分量も、当初予定していたものよりはるかに増えてしまった。そのため、当初の予定を変更、この書き下ろしの本稿だけで一冊の電子書籍として発表することになった。
 二〇一一年三月十一日に発生した大地震大津波による福島第一原発の事故。図らずも、飛び散った放射性物質の危険性とその影響する範囲の大きさを目の当たりにすることになった。同時に、日本には、いつの間にか五四基という原発が存在するという現実から、この後、その原発とどう対峙しどういう未来に向けて進むべきなのかという選択をひとりひとりに考えさせることにもなった。
 日本が、広島、長崎に原爆を投下された世界で唯一の被爆国でありがら、その国がなぜこんなに多くの原発をつくり続けてきたのか。この疑問を解くために、日本に初めて商用原発が導入されることになった経緯について調べてみた。
 見えてきたのは、ある特定の人間たちによって巧妙に原発開発の道がつけられてきた事実であり、そこには間違いなく、その後に「原子力ムラ」が形成される元凶のようなものが存在していたことも確かであった。
 しかし、問題の本質は、おそらくそんなところにあるのではないだろう。
 自分たちの利益になるような共同体を巧妙につくっていくという傾向はいつの時代にも見られてきたものである。人間の本能的な行為としてそういう現象が必ず発生するのである。つまり、誰にでも、善悪の判断が麻痺して自分たちの利益を優先する共同体の一員になってしまう危険が潜んでいるということなのだ。さらに、多くの人々が誤った情報を信じ込むことによって知らず知らずのうちに大勢が間違った方向に誘導されていたという現象も起こる。それらのことは歴史が証明している。
 広島、長崎の悲惨を目の当たりにした日本人は、戦後しばらくの間、核を拒絶してきた。そんな日本人に誤った情報が流されるのである。それは「核の平和利用」という口当たりのいい情報だった。「核は破壊力のある恐ろしいもの」という観念が「その大きな破壊力を平和のために使えば素晴らしい社会が生まれる」と言葉巧みに誘導されれば、たいていの人は納得してしまうだろう。しかも、マスコミがそれに一役買って宣伝の旗を振っていたのだとしたらなおさらのことである。
 一九五五年五月一五日、アメリカ原子力平和利用使節団の講演会が日比谷公会堂(東京)で開かれた。使節団を招聘したのは読売新聞だった。使節団には、ノーベル物理学賞を受賞したアーネスト・ローレンスも加わっていた。公会堂は超満員に膨れ上がり、講演会を生中継したのは日本テレビ。会場に入れなかった人たちは街頭テレビで視聴した。このあと、同年一一月から五七年八月まで、全国の主要一〇都市で巡回開催されたのが「原子力平和利用博覧会」。主催は在日米大使館だったが、共催には開催地の新聞社が名を連ねた。東京は読売新聞、大阪、京都は朝日新聞大阪本社、名古屋は中日新聞、広島は中国新聞、仙台は河北新報といった具合だ。つまり、紙面を通して、原子力(核)の平和利用、都合のいい原子力のプラス面だけが大々的に国民に伝えられたのである。
 日比谷公会堂での講演会の約一年前の一九五四年三月に起こったのが、マグロ漁船「第五福竜丸」被曝事件。アメリカがビキニ環礁で行なった水爆実験の際に死の灰を浴びたのである。
 焼津港に戻った第五福竜丸の乗組員二三名全員がその日のうちに市内の協立焼津病院で診察を受け、二一人が入院。重症と診断された二人は東大付属病院に送られた。当然のごとくに、核反対の市民運動が盛り上がってきた。この盛り上がりに水をさすように、国民の関心を逸らすごとくに登場してくるのが、「原子力の平和利用」のプロパガンダだったのである。
 そして、「原子力平和利用博覧会」が各地を巡回していた最中の一九五六年五月に来日したのが、イギリスの原子力公社のヒントン卿らのグループだった。彼らはコールダーホール改良型の原子炉を売り込みに来たのである。
 即座に、同年一月に発足したばかりの原子力委員会が反応する。委員長は、読売新聞社主から政界に打って出て一九五五年二月の総選挙で国会議員になっていた正力松太郎。正力は一九五六年七月に発電炉調査団をイギリスに派遣する。この時点で、日本初の商用原子力発電になるコールダーホール型の原子炉の導入が既定路線になっていく。
 この約一年前の一九五五年夏に「原子力調査国会議員団」が欧州各国を歴訪している。団長は中曽根康弘。同年九月に発表された共同声明には「三年以内に少くとも二個以上の実験炉及び現 在建設中の一号炉を完成し、その振興に応じて発電実験炉の建設に着手すること。 右及び総合基礎研究の諸経費として、三年間に約三百億円の予算を確保すること」の文言が盛り込まれていた。
 こうして、コールダーホール型原子炉の導入が決まっていくのだが、その過程で同炉の欠陥が次々と明らかになっていく。それでもなお、既定路線は覆らなかった。反対する良心的な科学者の声は、導入推進グループによって巧みに排除され、安全審査は機能しなかった。その排除の論理は、後に問題になる「原子力ムラ」の論理と同じ根をもつものである。つまり、「原子力ムラ」の利益誘導論理はこのときすでに形成されていたと言ってもいいだろう。
 一方、なぜ、アメリカ製ではなく、イギリス製の原子炉の導入だったのか。本編で詳しく触れているが、原子力協定における核管理の規制がアメリカよりもイギリスのほうが緩やかになる可能性が大きかったためである。その差に、当時の原発推進者のなかのある特定の人物たちが目をつけた。原子力発電は燃料であるウランを燃やす過程でプルトニウムが発生する。プルトニウムは核兵器に転用可能である。先の戦争の最後に核兵器で敗れた日本にも、将来のために核を保有する必要があると考える人物たちがいても不思議ではなかったのだ。彼らは、「原子力(核)の平和利用」という甘言で国民を誘導しながらその陰に核保有の野望を隠しもっていたのである。
 戦中戦後の政治家、科学者、そして国民の行動のなかからひとつの問題として浮かび上がってくるもの。それは古くて新しい「理性と本能」の問題である。
 戦中の科学者のほとんどが、国策としての戦争に協力した。戦後、科学者の多くが戦中時の戦争協力の過ちを自覚、反省して核なき平和な日本の国づくりに貢献すべきことを誓ったはずであった。それは、戦後新たに出発した日本学術会議の第一回総会の声明文にもあらわれていた。しかしそのときの覚悟は、時の流れとともに希薄になっていく。その希薄化が原発大国日本を生み出した要因のひとつだといっても過言ではない。詳しくは本編を読んでいただきたいが、要は、研究本能を有する科学者は、時に何よりも自身の研究環境を整えることに腐心しすぎるがために物事の善悪を判断する冷静な理性の働きが弱まってしまうということなのである。その弱点を老獪な政治家たちに突かれてしまう。予算という名の「エサ」に簡単に食らいついてしまい、権力者たちの思惑通りの罠にはまってしまうのである。しかし、ほとんどの科学者はそのこと、自身の理性が地に堕ちていることに気づこうとしない。気づくよりもむしろ、屁理屈を並べて自身の言動の正当化を試みることで納得してしまう。つまり、頭の良い科学者たちは偽りの理性を働かせるのである。
 一方、権力者の罠に気づいて抵抗する科学者は、次第に孤立化していく。いつの間にか増えていた、偽りの理性を働かせて権力者の意に沿った形で動く人々の群によって次第に追いつめられてしまう。本能に敗れた人々の群が圧倒的な数の力をもって「真の理性」をもつ科学者の言動を封殺してしまうのである。
 こういう例は、どこにでも見られる。一般のサラリーマン社会でも、村落共同体においても、さらには、小さな研究グループや官僚組織においても。およそ、共同体や組織と呼ばれる集団のなかでは珍しい光景ではないのである。数の少ない正論は、組織のなかでは異端として扱われ、やがてはじき出されていく。組織のなかの大半の人間は、自分の生活、現在の地位、割り当てられる研究費等々を守りそれを維持したいがために正論の側には与しないのである。与しないことで自身を守ろうとする。「自己保存」「自己防衛」という名の本能の為す業なのである。
 しかし、人間は理性を有することができる存在である。理性的に行動することができる存在である。誰にでも、自らを鼓舞して「正論」に同意する一瞬がある。過去の過ちを反省し、自覚的に正しい行動をしようとする理性の働きを感じる一瞬があるはずである。
 問題なのは、それが長続きしないことだ。理性的に動こうとすると、「そんなことをすると組織からはじき出されて職を失うよ。家族の生活はどうなるのだ」「体制に逆らってどうするつもりなの。研究費を無くしてどんな研究ができるというの?」「君の将来は助手のままだよ」「つまらないことを言っていると過疎地に飛ばされてしまうよ」などといった防衛本能を刺激する悪魔の囁きが搦め手で迫ってくる。
 気がつくといつの間にか、「正論」の声をあげられない沈黙したままの人間になっている。さらには、強い本能、過剰な欲望のせいで積極的に屁理屈を述べて甘い汁を享受するグループに仲間入りする人間も現われてくる。これが、共同体や組織のなかに身を置く多くの人間に見られる現状の姿である。がために、人類の歴史は、理性が本能に敗れ続けてきた歴史に他ならないと言わなければならなくなる。もし、総体として、理性が本能を抑え続けてきた歴史だったとしたら、もっと違う世界が現出しているはずだからである。
 だからこそ、改めていま、日本人ひいては人類にとって最も重要なのが、この「理性と本能」の問題なのなのだと強調しなければならないのである。人間ひとりひとりが、この問題とどう向き合うのか、いかに自身のなかで理性を育て、本能を抑え込める人間になれるかが、人類の未来を左右する。
 理性を育てる闘い。本能を抑え込む闘い。理性的な行動を持続させる闘い。
 ひとりひとりのこの闘いは、そう簡単な闘いではない。
 しかし、この闘いに勝たなければ人類に未来はない。
 本能を抑え込んで理性を持続させるためには、確固たる哲学と精神力が必要である。理性がちょっと油断するとその間隙を突いて本能が台頭してくる。決して油断してはならない。覚悟をもってあらゆる本能と闘わなければならないのである。
 本稿をほぼ書き終えていた二〇一三年一二月、天下の悪法「特定秘密保護法」が成立した。人間は、過去の過ちを認識、検証し、反省の上で自覚的に正しい方向に軌道修正することができる存在だが、過ちを認識するためには正しい情報が不可欠である。それは、個人も組織も共同体も、そして国家も同じである。
 国家が正しい情報を開示せずに、不正確な情報、権力者たちに都合のいい情報だけを意図的に流したらどうなるか。しかも、正しい情報を知りえた人間がその情報を漏らしたことで罪に問われるとしたらどういう世界が現出されるだろうか。
 日本は間違いなく危険な方向に進みつつある。
 その流れに抗するためにも、いまこそ、ひとりひとりが自身の哲学を確立し、「真の理性」「力強い理性」を育てなければならないときなのである。
                                       (本文より)

 

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鰆木周見夫(さわらぎ・すみお)

出版社、専門新聞社勤務を経てフリーのライターに。共著に『哲学・思想がわかる』『世界の神話がわかる』『日本人の起源の謎』(以上、日本文芸社)『哲学サミット』(角川春樹事務所)『ボクサー 世界戦に敗れた者たちの第二ラウンド』(アドリブ)『東京ジャズ喫茶物語』(アドリブ)など。電子書籍に『哲学の可能性〜哲学で何が救えるか?』『漂流する日本人、行き詰まる日本』(以上、島燈社)がある。

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◆『哲学の可能性~哲学で何が救えるか?』『世界神話の類似性と「記・紀」神話の政治性』『縄文と弥生の文化攻防』の3編を収載。15年前の論考が、今なお輝きを失っていない。むしろ、危うい日本社会が著者の予言した方向に進んできたことが確認できる証明の書にもなっている。
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