ボクシングについて静かに考えてみた

鰆木周見夫(さわらぎ・すみお)
ノンフィクションライター

第3回 ボクシングは本能と理性をコントロールするスポーツである


❶本能とは何か、理性とは何か
理性はリング上でボクサーの本能の過剰化を抑制する

 本能とは、人間が自身の生命を維持し、種を保存するために本来的に備わっている能力のことをいう。
 いわば、動物的な行動をもたらす原理の中枢とでも言えばいいだろうか。腹が減れば食う、危険を感じれば逃げる、女性を見れば迫りたくなるといった類だ。
 人間の心身活動をコントロールする司令塔の役割を果たしているのが脳で、その脳のなかで本能を司っているのがより内部に位置する古い脳だとされている。脳幹や大脳辺縁系、小脳など。そして、この古い脳を包み込むようにしてできているのが大脳新皮質である。
 大脳新皮質は、人類が二足歩行を選択した時点から徐々に大きくなっていったとされている。つまり、「考えること」で、あるいは「考えるため」に神経細胞の数が増えて脳の容積が拡大していったのだ。ゆえに、大脳新皮質は、人間を人間らしくあらしめるために発達してきた「理性の脳」ともいわれている。
 人間は生き抜くために本能を機能させようとする。そしてその本能が過剰に働かないようにコントロールしようとするのが「理性」なのだ。
 ボクシングは、本能と理性の組み合わせで成り立っている。
 相手を殴るという意味では極めて本能的である。しかし、相手のどの場所をどう殴るかという戦術面は理性的である。
 ボクシングは、その本能と理性を極限まで研ぎ澄まし高めていくスポーツなのだといえるのではないだろうか。
 そこが、感情の激した喧嘩、ストリートファイトとは違うといわなければならない。
 ゆえに、リング上でも、感情が激しすぎ、理性のコントロールが利かなくなったボクサーは負ける確率が高くなるといえるのだろう。

❷ボクシングの究極は、本能を理性的に磨くこと
闘争本能がなければリングに立てないが、それだけでは試合に勝てない

 人間の日常生活は、本能を抑えて理性的に振る舞うことを主眼にしているが、ボクサーはリング上で本能を剝き出しにすることを要求される。さらにその本能を綿密にコントロールしなければボクシングにはならない。
 逆説的な言い方になるかもしれないが、ボクシングの究極は、本能を理性的に磨くことなのである。
 相手を倒すために闘うという闘争本能がなければ、ボクサーはリングには立てない。しかし、単なる本能剝き出しだけではボクシングの試合には勝てない。それが、ボクシングというスポーツだ。
 ランクが上位になるほどボクサーのテクニックは精緻になっていく。相手の精緻なテクニックに対するには、さらにそれを上回るテクニックを身につけることが勝つための必要条件である。そのために、ボクサーは血を吐くようなトレーニングを積まなければならない。
 しかし、皮肉な言い方になってしまうが、技術が向上しただけでは試合には勝てないのである。
 自分より強いと思える相手と闘うとき、より重要になってくるのが旺盛な闘争本能なのである。
 時に、この闘争本能がテクニックをカバーして強い相手を倒して勝利をもたらす。実は、このときの闘争本能をボクサーの全身に煽りたてているのが「理性」なのである。強い相手に対して逃げずに果敢に闘わなければならないという重要な意味を理性が指示しているのだ。
 闘わなければならないその重要な意味づけは、ボクサーひとりひとりが自身のなかで明確にしておかなければならない。
 家族のため。
 金を稼ぐため。
 恋人のため。
 自分のため。
 自分を支えてくれている人たちに対する恩返しのため。
 闘うための意味があれば、ボクサーは頑張れる。
 しかし、意味が過剰すぎるとバランスを崩す。力が入りすぎてテクニックを殺してしまう。
 そうならないために過剰な意味を抑制してバランスを取るように指示しているのも実はまた「理性」なのである。
 だから、ボクシングは難しい。

❸過剰な闘争本能は理性を機能不全にする
国民の「期待」を闘争本能に転化して亀田興毅に敗れた内藤大助

 2009年11月29日、日本中が注目した試合が行われた。WBC世界フライ級チャンピオン内藤大助対挑戦者亀田興毅の一戦。
 リング外での不適切な言動で悪のイメージを定着させていた亀田一家の長男である興毅は、一般ファンには好感をもたれていなかった。チャンピオン内藤を不愉快にされるような言葉を吐いて顰蹙を買っていた。
 一方の内藤は、中学時代にいじめを受けていた弱虫だったが、それの過去を克服して世界チャンピオンにまで上り詰めた好印象の青年。
 ファン心理は、生意気な奴を倒してやれ、大口叩きが倒されるのを見てやろうという形で動き、内藤のKO勝利を願っていく。
 そこに落とし穴が待っていた。
 ファン心理を都合よく察知した内藤は、多くのファンの声に応えようとして過度に気負ってしまったのだ。興毅は、内藤にとって負ける相手ではない。しかし、きれいに勝てるかどうかは闘ってみるまでわからない。
 内藤はきれいに勝とうとして「理性」を失っていた。「国民のために亀田を倒す」という意味づけが過剰すぎて、それを理性でコントロールできなくなっていたのである。闘争本能は剝き出しだったが、理性が機能不全に陥っていたのだ。
 一方の興毅は、リング外での大口とは正反対に、カウンターパンチャーに徹していた。もとより、それがこの選手の特徴で、強い相手に対して果敢に打ち合うほど愚かではない。
 試合では、興毅のカウンターが内藤の顔面にヒットして勝負は決まった。内藤は、負ける相手ではない興毅をきれいに倒そうと気負った分だけ本来の持ち味が出せずに敗れたのである。
 ボクシングとは、本当に難しいスポーツである。
 4カ月後、興毅のカウンターパンチは、ポンサックには通用せず、初防衛に失敗した。根底にある興毅の欠点は、日頃の言動とは裏腹に強い相手に果敢に挑んでいくという闘争本能がそれほど強烈ではないことである。
 逆説的になるが、たぶん、亀田興毅は本来的にはクレバーな、危険を察知する能力に優れたボクサーなのだといえるだろう。
 その後、亀田興毅は、2010年12月26日に、WBA世界バンタム級の王座決定戦に判定で勝利し3階級制覇を達成、現在まで2度の防衛に成功している。が、自身が望んでいるすっきりしたKO勝ちはおさめていない。その点は、本人も納得していないのかもしれない。
 しかし、それでいいのである。
 無理にKO勝ちにこだわり、そのことを過剰に意識する必要はない。
 打たせずにカウンターパンチを正確に打ち込む。
 それが自分の持ち味であることを再確認し、そこにさらなる磨きをかければ負けない選手としての「強さ」が際立ってくるだろう。そうなれば必然的にKO勝利もついてくると思われるのである。

❹旺盛な闘争本能は相手の理性を攪乱する
ハーンズを倒したハグラーの怒りは理性的な闘争本能だった

 怒りをリング上でぶつけて世紀の一戦に勝利したボクサーのひとりにマーヴィン・ハグラーがいる。
 世界ミドル級チャンプ。相手はジュニアミドル級チャンプのトーマス・ハーンズ。「ヒットマン」の異名をもちKO率8割強を誇る人気ボクサーだった。
 ハグラーはなぜ怒っていたのか。
 それまで11 度の防衛を重ねながらも高い評価が得られず人気も低迷していた自己への怒りと苛立ちの反転が、人気者のハーンズへと向かっていたのだろう。
 人気とは不確実なものであるが、決して侮れない。人気が後押ししてボクサーを実力以上のものにしてしまう力がある。そしてそれが、ファンの幻想を呼び込んで試合を世紀の一戦として大きな興行に祭り上げてしまうのである。
 ファンはひとりのボクサーを人気者に祭り上げながら、一方でそのボクサーの実力が確かなものかを知りたがる。
 人気者のハーンズと実力者のハグラーの試合はこうして実現した。
 1985年4月15日、ラスベガス。
 ビッグマネーが動いた。
 実力者のハグラーは怒っていた。人気だけでは勝てないことを証明してやろうと怒っていた。
 ハーンズもハグラーを倒して自身の力が人気だけではないことを示そうとしていた。
 決着は3回についたが、1回、グローブを交えたときに勝負の行方は決していた。ハーンズは、ハグラーの怒りと圧力に予想以上のものを感じて萎縮し、ハグラーはハーンズのパンチが意外に効かないことを感じていたのだ。
 3回、ハグラーの実力に屈し、テンカウントを聞いたハーンズ。屈強な二人の男に引きずられるようにしてコーナーに運ばれるハーンズの写真がその後話題になった。十字架に縛られて引きずられるキリストの姿のようだ、と。
 ハグラーの勝利は、怒りを理性的にコントロールした例の貴重な証明でもあった。

❺理性が働きすぎると本質が見えなくなる
摑みかけていたチャンピオンベルトを落としてしまった桜井孝雄

 東京オリンピックのゴールドメダリスト桜井孝雄は、クレバーなボクサーだと言われた。その桜井が、世界バンタム級のタイトルに挑んだのは1968年7月2日。
 相手はオーストラリアのアボリジニの血をひくライオネル・ローズ。ローズは、ファイティング原田を破って王座に就き、初防衛戦の相手に選んだのが桜井だった。
 桜井は、プロデビュー以来負けのなしの22連勝。KO勝ちは少なかったが、相手に打たせずにパンチを叩き込む技術には屈指のものがあった。
 ラッシュと手数の多さが身上だった原田は、その特徴をローズに封じ込められて敗れた。桜井には、原田にないテクニックで勝負できるだろうと期待された。
 2回、桜井の左がローズの顔面にヒット。たまらず腰を落としたローズ。マットに尻餅をついた。
 その後、桜井のテクニックがローズを圧倒して終盤に入る。
 しかし、明快に桜井が取ったと思われるラウンドはダウンを奪った2回のみである。
 桜井は逃げ回った。
 逃げ回ることが理性のなせる業だったのか。
 このまま打たせないでポイントを取られなければ勝てる。悪魔がそう囁いたのかもしれない。
 しかし、相手のパンチを受けない最大の方法は逃げ回ることではない。「攻撃は最大の防御」という言葉もある。
 この試合に勝つためには、桜井は自分のパンチをローズに当てることに腐心しなければならなかったはずである。
 にもかかわらず、桜井は打たれないことに腐心し、逃げ回ることを選んだ。結果、桜井は僅差の判定で敗れた。
 試合後、桜井は、なぜ負けたのかわからないと語っている。
 桜井の理性が人間の本能を過剰に抑えすぎたのではなかったか。
 テクニックの良さが身上のカウンターパンチャーは、そのボクシングスタイルから、「負けない」ことにこだわらなければならない。
 それまでの桜井はそうだった。しかし、ダウンを奪った世界戦での桜井は、途中で、「勝つ」ことにこだわりすぎたのである。
 ボクシングとは本当に難しいスポーツである。 

(2011.11.19)

鰆木周見夫(さわらぎ・すみお)

出版社、専門新聞社勤務を経てフリーのライターに。共著に『哲学・思想がわかる』『世界の神話がわかる』『日本人の起源の謎』(以上、日本文芸社)『哲学サミット』(角川春樹事務所)『ボクサー 世界戦に敗れた者たちの第二ラウンド』(アドリブ)『東京ジャズ喫茶物語』(アドリブ)など。電子書籍に『哲学の可能性〜哲学で何が救えるか?』『漂流する日本人、行き詰まる日本』(以上、島燈社)がある。

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