いま、思うこと12 of 島燈社(TOTOSHA)

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いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜

第12回/工藤茂
黎明期の近代オリンピック

 日本時間の9月8日、ブエノスアイレスで開催されたIOC総会で、2020年オリンピック、パラリンピックの東京開催が決定した。深夜にもかかわらず地球の裏側からの生中継を見た人もたくさんいたようだ。ぼくが知ったのは夜が明けてからだが、朝起きてテレビのスイッチを入れるや否やモニターのなかは大騒ぎだった。ロゲIOC会長がカードを開いて「トーキョー」と言うシーンなど何度見せられたことか。新聞も大騒ぎだったし、街も浮かれていた。正直のところ、これが7年間も続くかと思うといささか気が重くなった。
 ところがどうだろう。騒ぎは思いのほか続かなかった。9月下旬になると、収まりつつあったところに追い打ちをかけるように巨大すぎる新国立競技場建設計画への懸念が報道され、急速にしぼんでいったようにも思えた。実際のところはどうか招致委員会のHPを覗いてみたが、さほど新しい話題が載っている様子もみられなかった。
 一方、最終プレゼンテーションで安倍首相が世界に発した「原発事故は完全にコントロールしている」の言葉のほうはずっと尾を引いているし、その後の汚染水関連の報道を見ていると、単純な作業ミスもふくめて、容易に収まるような様子はみられない。こんな状態のうえに11月からは4号機の燃料プールからの燃料取り出しというミスの許されない危険な作業が始まるのだが、どうみてもオリンピックを手放しで歓迎できる雰囲気ではないのだ。
 9月27日、広瀬隆氏は世界のアスリートたちにそんな状況を伝えようと、福島第一原発の現状を伝える写真や図版を網羅した英文のレポートをネット上に発表した。英語版だけでは不充分と思っていたところ、ドイツ語版、イタリア語版も発表され、アジア向けも制作中と聞く。

 ところで、近代オリンピックは、言うまでもなくピエール・クーベルタンの提唱によって始まる。1894年6月、パリで開かれた万国博覧会のときである。ソルボンヌ大学講堂で開催されたアマチュアスポーツに関する国際会議に乗り込むようにして登場したクーベルタンは、オリンピックの復興と国際オリンピック委員会の設立を提案し、満場一致で採択された。
 これがのちに「オリンピック・コングレス」第1回の会議とされ、そこで近代オリンピック第1回大会を1896年にギリシャのアテネで開催すること、以降、古代オリンピックの伝統にしたがい4年ごとの開催、世界各都市の持ち回りとすることが決められた。同時に会長就任を要請されたクーベルタンは、第1回大会に決まったギリシャの委員デメトリウス・ビケラスに譲り、みずからは事務局長として奮闘した。
 第1回アテネ大会は女子禁制という制限つきだったが、会長のビケラスの尽力もあって無事に開催された。のちギリシャ政府やビケラスらはアテネでの永久開催を主張し始めたのだが、第2代IOC会長に就任したクーベルタンの強力な説得工作もあって、第2回大会はクーベルタンの母国フランスのパリでの開催が決定された。
 クーベルタンの情熱を母国は必ずしも歓迎したわけではなかった。フランス政府はオリンピックをたんなるスポーツ・イベントとしてとらえ、同じ1900年にパリで開催される万国博覧会の付属競技大会と位置づけた。「万国博覧会国際競技大会」──これが第2回オリンピックの正式名称である。競技全体の開会式、閉会式はなく、開催期間も半年間という長期におよび、10日間でおこなわれた第1回アテネ大会とは大きく異なるものになった。
 続く1904年の第3回大会は、アメリカ合衆国のセントルイスに決定したが、パリ大会同様にセントルイス万国博覧会の付属競技大会となり、開催期間も5カ月近い長期にわたった。
 1908年、第4回大会は一度決まったローマが資金難から返上したために急遽ロンドンにて開催された。2回、3回同様にロンドンで万国博覧会が開催される予定だったが、イギリスオリンピック協会初代会長デスボローは、博覧会実行委員会より多くの支援を受けつつも付属大会になることを強く拒否し、本来のオリンピックの姿に戻している。しかし開催期間だけは博覧会に合わせて半年間という長期におよんだ。
 そのほか、それまでは個人やチームによる参加だったが、このロンドン大会から各国のオリンピック委員会を通してしか参加できないという参加規定がつくられるとともに、開会式では参加選手たちはそれぞれが所属する国旗のもとにプラカードを持って国家の代表として行進することと、1位、2位、3位の選手・チームに金、銀、銅メダルを贈るなど、その後のオリンピックの原型を形づくるものとなった。
 1912年、第5回大会はスウェーデンのストックホルムで開かれた。これまでアジアの国からの参加はなく、1909年にアジアで初めてのIOC委員に就任していた嘉納治五郎のもとに、会長のクーベルタンからオリンピック参加を求めるメッセージが届けられ、それに応える形で日本が参加している。
 団長の嘉納治五郎と監督の大森兵蔵、陸上短距離選手の三島弥彦とマラソン選手金栗四三の4人が参加し、開会式では大日章旗を持った三島と国名が書かれたプラカードを手にした金栗が場内を一周した。三島が100、200,400メートルに出場、国内選考会では当時の世界最高をマークしていた金栗だったが日射病のため32キロ地点で棄権となった。
 ちょっと脱線するが、ネット上でさまざまな情報をあさっていたところ、次のような記事に出会った。時事通信2008年5月12日の配信である。第5回ストックホルム大会から55年後の1967年、スウェーデンオリンピック委員会から記念行事への招待を受けた75歳になっていた金栗はストックホルムのスタジアムでゴールのテープを切った。そのときにスタジアムに流れたアナウンスがこれである。
 「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了する」

 黎明期の近代オリンピック、とくに第2回パリ大会、第3回セントルイス大会は万国博覧会と密接なつながりがあったことが理解できたことと思う。そもそもクーベルタン自身の構想のなかには、オリンピック競技大会とともに、古代から現代までのスポーツを紹介し、スポーツへの関心を高めるためのスポーツ博覧会のようなものがあったという。
 1889年、フランス革命100周年にあたりエッフェル塔が建設されるなど、これまでの最大規模のパリ万国博覧会が開催された。26歳のクーベルタンはこの万国博覧会を詳細に見学し、スポーツをこうした国際的なイベントに組み込むことの意義を感じ取っていた。そうして1894年のパリ万国博覧会での「オリンピック復興」の提案へとつながる。
 万国博覧会とは大規模な見世物小屋のようなものである。1889年のパリ万国博覧会には「植民地展示場」という展示があり、アジア、アフリカの植民地の町並みが再現されている。フランス政府の帝国主義政策に世論を引きつけるための展示で、そこにはアジア、アフリカの住民182人が連れてこられ、見世物となって歌や踊りを披露させられた。
 1904年のセントルイス万国博覧会の「未開民族の」展示場には、さまざまな先住民族が集められるとともに、セントルイス・オリンピック組織委員会の企画によって「未開民族のオリンピック競技大会」として「人類学の日(Anthropology Days)」が設けられた。
 未開な民族はスピード、スタミナ、筋力において優れた運動能力を持っているという「うわさ」を実証することを目的に、組織委員会が正式に認めた競技大会としておこなわれたのである。ちなみに、当時のオリンピックの競技種目は、開催都市のオリンピック協会や組織委員会の裁量に任されていた。
 メキシコの先住民族ココパ、南米パタゴニア人、米国の先住民族スー、チペワ、プエブロ、ポーニー、カナダの先住民族クワキュートル、フィリピンのモロ、ネグリト民族、日本のアイヌ民族、アジアのシリア人、トルコ人、アフリカのピグミー、バクバ、ズールー民族などが参加したが、いずれも万国博覧会の「未開展示場」への参加者でもあった。もちろん1889年パリ万国博覧会「植民地展示場」同様、各個人の自発的な参加とは考えにくい。
 競技は2日間にわたっておこなわれ、1日目は、同じ民族同士で同一種目の競技をおこない、2日目は各民族の1位、2位を集めて種目ごとに決勝がおこなわれた。競技種目は100ヤード競争、1マイル競争、120ヤード・ハードル、走り幅跳び、走り高跳び、大型ナイフ投げ、野球ボール投げ、やり投げ、アーチェリー、柱上り、綱引きなどで、柱上り以外は、当時のオリンピックの競技種目と同じである。
 記録には日本から参加したアイヌの人々の名前も残っている。コウトウロケ、ゴロー、オーサワ、サンゲアの4人で、2日目の競技ではコウトウロケが槍投げで3位、サンゲアがアーチェリーで2位に輝いているが、競技記録全体としては未開民族の驚異的なスピード、スタミナ、筋力を証明する結果とはならなかった。
 この「人類学の日」の実施を、オリンピックにふさわしくないとして不快感をあらわにしたクーベルタンはセントルイス大会に一度も顔を出さなかったという。近代オリンピックの創設者でもある彼の言い分はこうであった。
 「このけしからん茶番劇に関しては、将来、黒人や赤人、黄色人が走ること、跳ぶこと、投げることを学び、白人を追い越してしまうときがくれば、もちろんオリンピックはその魅力を失うことになるだろう」
 クーベルタンの構想したオリンピックは白人に限定されたものだったのである。そして「人類学の日」だけが彼の不快感の対象ではなかった。アメリカの黒人陸上競技選手ジョージ・ポージは、オリンピックの人種隔離に反対しボイコットを呼びかける黒人指導者たちの声に抗って参加し、200メートルと400メートル・ハードルで銅メダルを獲得している。
 このときから5年後の1909年、クーベルタンは「黄色人」である嘉納治五郎に対してIOC委員への就任を要請することになる。はたしてクーベルタンの心境にどのような変化があったのか、いまとなっては推測するしかない。

 セントルイス大会では「人類学の日」のほかにも、大学運動クラブ同士の競技や13〜14歳の少年による競技、ハンディキャップ競技など、広範な競技大会が開催され、どの種目や競技を正式なものと認めるのかIOCでも公式に決定することなく現代まできているという。したがって「人類学の日」の扱いについても、資料によって一様ではないらしい。
 日本オリンピック委員会のHPでも、この件にはまったくふれられていない。当時はまだチームや個人としての参加だったのであるから「日本人が初参加」程度の記述があってもよさそうに思うが、それもない。第5回ストックホルム大会については「オリンピックの歴史」の項で「日本がオリンピックに初参加」と記されている。しかしながら、同じ日本オリンピック委員会企画・監修による『近代オリンピック100年の歩み』(ベースボールマガジン社、1994年)には、セントルイス大会について次のような記述があるという。
  「IOCのデータによると、開催期間は 7月 1日から 1月 23日までの 5ヶ月弱。 12ヶ国から
  554人の選手が参加したとされている。開催期間が長いのは、前回のパリ大会と同じように
  博覧会の付属物となってしまったためだ。18競技 95種目とは別に『人類学の日』との名前
  のもとに、アメリカ・インディアン、アフリカン・ピグミー、ニグロ、パタゴニア人、ア イ
  ヌ人、モロー族などの原住民を対 象とした競技もこの期間中に実施している」

 ためしにパソコンで「人類学の日」と検索してみても反応が少ないが、「Anthropology Days」では数多くヒットしたのは予想どおりだった。日本では意図的にふせられているとも考えられるが、関心は低いようである。英語圏では「Anthropology Days」をテーマとした少なくない数の書籍が出版されているのである。
 今回のテーマは、上村英明『先住民族の「近代史」──植民地主義を超えるために』(平凡社選書、2001年)の「第一章 近代オリンピックと先住民族」によるが、オリンピックと聞くたびに10年前に偶然出会った本書の記述を思い起こす。この稿に記した多くは上村氏によるものだが、ほかにネット上にある宮武公夫「人類学とオリンピック──アイヌと1904年セントルイス・オリンピック」(『北海道大学文学研究科紀要 108号』2002年)も参考にした。 

(2013/10)



<2013.10.22>

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工藤 茂(くどう・しげる)

1952年秋田県生まれ。
フリーランス編集者。
15歳より50歳ごろまで、山登りに親しむ。ときおりインターネットサイト「三好まき子の山の文庫」に執筆しているが、このところサボり気味。

工藤茂さんの
<ある日の「山日記」から>が読めます。LinkIcon

工藤/先住民族の「近代史」.jpg上村英明『先住民族の「近代史」──植民地主義を超えるために』(平凡社選書、2001年)

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