いま、思うこと5 of 島燈社(TOTOSHA)

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いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜

第5回/工藤茂
病、そして生きること

 この2月末、4年ぶりに帰省した。両親はすでにいない。男ばかり3人の子どもが巣立ったあと家を売り払い、両親はわずかに離れた郊外に終の住処を建てた。20年ほど前に父が没、ひとり残された母も10年前に亡くなり、システムエンジニアで2歳年長の兄が東京から戻りそこでひとりで暮らしている。その兄が肩を骨折して手術を受けるという連絡があった。
 連絡をくれた青森在住の弟によれば、病院側は立ち会いがなくとも手術を進めるとのことでわざわざ行く必要もないと言うのだが、迷った末に肉親ひとりぐらいは立ち会わなくてはと思い、妻を連れ急遽帰省したのである。
 病室に入り、数年振りに会う兄には以前の面影はなかった。白髪混じりの髪や髭を伸ばし放題のまま仙人のおもむきでベッドに腰掛けていた。「痛くもないし医者は大げさだ。手術なんて必要ない。」などと威勢がよかったのだが、時間がくるとおとなしくストレッチャーにのせられ、手術室の二重の扉の向こうに消えていった。
 3時間半の手術を終え整形外科の担当医による説明を受けた。術前・術後のレントゲン写真から兄の肩の骨は金属でみごとに接続されているのが見てとれた。ただ肝機能・腎機能に異常があり、血糖値も高く糖尿病もあって、まっすぐに歩くことが難しく入院してから4、5日で3回も転んでいるとも付け加えた。さらに定期預金や株がどうとか、酒が呑みたいといった理由をあげてしきりに外に出たがるという。それでも入院してから数日酒を断っただけで血糖値などの数値は相当改善しているという。いずれ歩行のリハビリも含めて1カ月半ほどで退院となるが、食事を満足にとらずに酒びたりの生活に戻ってしまうことを懸念していた。歩行が難しいのは糖尿病のせいかと聞いてみたが、その可能性が高いという答えだった。

 父の死後、兄は一時実家に戻って地元で求職活動をしていたことがあった。しかし部屋にこもり酒ばかり呑み続ける兄に、体の変調を感じとった母が診療をすすめてもまったく聞き入れられないという電話が何度もあった。また数年前、弟から普通に歩けなくなっているとの連絡があったほか、車に乗せて無理矢理病院に連れていこうとした弟は兄と喧嘩になったとも聞いた。ぼくも何度か手紙や電話で「糖尿病のようだから、放っておくと脚の切断までいくぞ」と伝えたりしたのだが、聞く耳をもたなかった。
 弟はなんとしても病院に連れていかなければという考えで、「子どもじゃないし、治療を受けるかどうかいろんな考え方もあるし」というぼくの言い方は理解できないようだった。ただ兄は自分の抱えている病気をさほど理解しておらず、たんに病気と向き合うことから逃げているだけというのが、ぼくと弟の一致した見方である。
 この2月上旬には、兄に電話をかけていていざ体の話に移ったとたんに受話器を切られたことがあったが、それから間もなく風呂場で転倒しみずからタクシーで病院に向かうことになった。とりあえず、今回の入院が医師に診てもらうよい機会になったことに間違いはなく、弟もぼくも心配しながらも喜んだのであった。

 手術の翌日、弟と一緒に見舞った際、ベッドに腰掛けて元気そうな兄に糖尿病について聞いてみた。
 「こんなの、誰だって年をとればなるんだから放っておけばいい。治療したって治るわけじゃないし」
 「治らないだろうけど、放っておいたらまずいんだよ。悪化を抑えるにも治療が必要だろう?」
 「そうだよ、治らないんだよ。よく分かってるじゃないか」
と言うと口をつぐんでしまい、どう理解しているのか皆目見当がつかないのだった。
 実家に向かった。両親が建てた家もすでに築40年。玄関に入って愕然とした。頭の上や壁のあちらこちらには蜘蛛の巣が揺らぎ、三和土[たたき]も床もゴミや埃だらけ、廊下には新聞・封書類が積み重なり足の踏み場もなかった。一瞬、靴のまま上がろうかと思ったほどだが、晩年の両親が暮らした家と思い、とどまった。
 母が亡くなったとき「この家は俺がもらうからな」と宣言した兄だったが、それがこの有様かと思うと腹立たしくもあったが、ぼくには関わりのないものという思いもあった。そもそも兄も弟もこの家で数年程度暮らしたことがあるが、ぼくはまったくないのだ。
 思っていた以上に荒れた様子に驚くとともに、「ゴミ屋敷=孤独死」という文字が一瞬頭に浮かんだのだが、テレビで紹介されるゴミ屋敷と比べればまだましとも思えた。家を守るというのはひとりでは厄介だろうと案じていたが、ほかの件でも親戚から漏れ伝わってくる事柄もあった。

 また、弟夫婦からさまざまな話を聞いた。兄はすでに総入れ歯に近い状態らしいが、入れ歯が嫌いでいっこうに装着しないという。友人に誘われ居酒屋に出かけたのだが、満足に食べられない自分を尻目に美味いものをパクつく相手に腹を立てて帰ってきたという。また、伸ばし放題の髪と髭は入院してからのものではなく以前からのものらしい。入院の際に持ってきた替えの下着がボロボロのため、病院の立て替えという形で下着を買ってよいかという電話が看護師さんからあったともいう。
 これではなりふり構わずではないか。兄にとっては生きることすべてが面倒で、残りの人生をすでに放り投げているとしか考えられなかった。ただ入院に際して、新聞販売店や町内会長への連絡を済ませてあったことは意外で、弟も感心していた。
 医師は兄をひとりでおくのはよくないというが、誰かが同居したところで、せっかくの入れ歯を使おうとしない限り同じ食事を食べることもできない。また兄の酒をとめようとしても諍いが起きることは必至で、弟夫妻とも「しょうがないよな」というところで終わった。

 東京へ帰って2週間過ぎたころ弟から電話が入った。兄が糖尿病の治療を拒否しており今月いっぱいで退院しそうだという。ぼくはちょっと様子をみようと答えたものの、1日考えたあげく医師に手紙を書いた。
 兄は子どもではないので、糖尿病を放っておいたら将来どういうことになるのか、合併症などについて詳しく説明をしてもらったうえでの治療拒否であればやむを得ないこと、兄自身に「健康になりたい、長生きしたい」という気持ちがあるのなら手助けするつもりだが、本人にはその気持ちがまったくみえないので、われわれは距離を保ちつつ見守る程度のことしかできないように思うこと、いずれ介護が必要となった場合どういった問題が起きるのか、今から覚悟すべきであることは自覚しているといった内容である。
 その手紙から10日後、再び電話があった。兄本人から弟へ連絡があり、今日すでに退院したということだった。弟も驚いていたが、ぼくも予想以上の早さに驚いた。退院の際にはまた行くのだろうかと妻とも話し合っていた矢先のことだった。
 眠っていたのだろうか、電話に出た兄はあまり機嫌がよくなかった。「いつまでもあんなところにいるわけにいかないから、さっさと退院した」と話していた。もっと治療が必要なんだろうと話を向けると「そんなことは言われていない」と答えるが、とてもそのまま信じることはできなかった。今後は2週間に一度病院に行くとのことだった。あとは真面目に通院してくれることを祈るのみである。

 兄の今後については妻や弟と何度も話しているのだが、兄はもう還暦を過ぎているのだし、酒が呑みたいのなら好きなだけ呑んでもらうしかないだろうし、好きに暮らしてもらってよいのではないかという結論に落ち着いている。しかしながらその先、突然死んだ場合はどうするのか、まったく歩けなくなって介護サービスが必要になったらどうなるかというところに話がすすむと結論がすっきりしなくなる。
 ひとつ例をあげてみる。80歳を過ぎた知人が千葉県某市の高齢者向け優良賃貸住宅にひとりで暮らしている。民間集合住宅だが県から補助が出ている。部屋の広さは40平方メートルほどで自己負担分の家賃は7万円台である。そこには住人の安全確認のために、24時間対応のさまざまな工夫がなされている。
 1.室内の決められた場所に鍵を置くことで管理会社が住人の在宅を確認できる。
 2.安否確認の水センサーにより、一定期間水の使用がないと管理会社が確認に入る。
 3.寝室・トイレ・浴室に緊急通報装置が設置されている。
 4.緊急ホンによりボタンひとつで管理会社に連絡ができる。

 集合住宅であればこういったしくみも可能でおおいに広まってほしいのだが、戸建て住宅ではセキュリティ会社と契約するしかない。懐具合を勘案しての個別の対応ということになる。兄の場合はどうかといえば、彼の性格からいって、持ちかけてみたところで「必要ない!」のひとことで話は打ち切りとなるのは目に見えている。結局兄がいくら嫌がろうとも、ときおり電話を入れて様子をうかがうしかないのだろう。
 いまぼくはふたり暮らしだが、先に相棒が死ねば状況は兄と同じだ。連絡を入れて不審に思った誰かが来てくれることに期待するしかない。つまり死後数カ月も過ぎて発見されることもやむを得ないと受け入れるしかないのだ。後始末をしてくださる方には申し訳ないことなのだが、死ぬ側としてはそのあたりに落ち着かせて勘弁いただくしかない。
 問題は介護サービスを受ける場合である。医師への手紙では「覚悟すべきであることは自覚している」などと書いておいたものの、現実問題としてどうすべきかよく分からない。とはいっても、介護サービス会社と相談して症状をみながら対応を決めることになるのであろう。そのためには兄の嫌いな医師の診断が必要となることは言うまでもない。
 母がひとり暮らしになって数年後のこと、身のまわりの整理程度の軽い介護サービスを受けるようになっていたが、やがて痴呆のような症状が出てきたため介護サービス会社へ相談にいったことがある。応対してくれた女性の所長は母の痴呆については認めつつも、軽度のため「もう少し様子をみましょう」という結論に終わったことを思い出す。その3カ月後、母は2トン車に巻き込まれて死んだ。とくに痴呆が事故の原因ということではなかった。
 この原稿に頭をひねっている間にも80歳を超えた方からメールが入り、90歳の方からは電話が入る。どちらもすこぶる元気だ。兄にこういう方々の話をしても、あまりピンとこないようである。ぼくは兄の様子をうかがいながら、茫とした不安を抱えつつもうしばらく生きる。相棒のために。
                                      (2013/04)


<2013.4.8>

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工藤 茂(くどう・しげる)

1952年秋田県生まれ。
フリーランス編集者。
15歳より50歳ごろまで、山登りに親しむ。ときおりインターネットサイト「三好まき子の山の文庫」に執筆しているが、このところサボり気味。

工藤茂さんの
<ある日の「山日記」から>が読めます。LinkIcon