いま、思うこと6 of 島燈社(TOTOSHA)

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いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜

第6回/工藤茂
沖縄を思う

 「こんなに美しい海を埋め立てるなんて。見に来なければよかった」
 この年3月、衆議院議員による沖縄県辺野古視察の際に自民党のある女性議員が漏らした言葉だそうだ。共産党・赤嶺政賢議員が東京都内の集会でこの言葉を紹介、『しんぶん赤旗』記者のツイートを介してひろまった。その女性議員はごく当たり前の感性の持ち主だろうと思うが、「見に来なければよかった」ではなく「埋め立てに断固反対する!」とか言ってくれていたらなおよかった。
 岬の突端は米軍基地キャンプ・シュワブのなかにあるので、埋め立て予定の海を船から視察したのであろうか。ぼくは辺野古には行ったことはないが、この5〜6年インターネット上の「辺野古浜通信」から情報を得ているし、本土復帰から10年ほど過ぎたころ、辺野古から南に下った宜野座 [ぎのざ]の潟原[かたばる]の海岸に行ったことがあって、その美しさは知っているつもりだ。
 ひろいパイン畑を抜けたところの店先にいたおばさんが「7年前だったらもっと綺麗だったけどね。いまはちょっとねー」と話していたことを思い出す。それでもぼくにとっては充分すぎるほど綺麗な海だった。頭上を米軍機が突っ切っていった。
 さらに南下して金武[きん]湾をぐるりとめぐる。平安座[へんざ]島を案内してくれたタクシーの運転手さんは、巨大な石油タンク群の周囲を回りながら、石油備蓄基地を誘致するために県立自然公園の指定をはずされたと語った。車を停めると「綺麗なところがあるから」と藪を掻き分けてぼくを呼び寄せた。真っ青な海がひろがる。手前には小さな村や港。海中に透けて見える珊瑚礁を切り開いた水路のなかを伊計島からの漁船がゆっくり進む。のどかで豊かな眺めだった。「むかしはもっと綺麗だった。この10年でだいぶ汚れた」。運転手さんは使い慣れない本土言葉で懸命に話してくれた。

 民主党から自民党へ政権が替わっても、政府要人の沖縄詣でが頻繁に報じられる。普天間基地の辺野古移設は、そもそもたんなる基地の移設というレベルの話ではなく、米軍の大規模な新基地建設である。政府は固定化はないと言うが、一度つくったら元には戻らないのは分かりきったことだ。
 テレビの画面で仲井真弘多[ひろかず]沖縄県知事を目にするたびに苦々しく思う。彼はそもそも辺野古移設には条件付きながらも容認だった。
 2010年10月22日、文京区民センターにて、辺野古移設反対を掲げて沖縄県知事選に出馬表明していた前宜野湾[ぎのわん]市長の伊波洋一支援集会が開かれた。国内外のテレビ取材も入り、用意した椅子が足りなくなるほどの人々があふれ、伊波の当選確実かとも思われる熱気だった。ところが、仲井真は公示直前になって伊波と同じ移設反対に転じ、11月28日現職の強みを生かして再選された。
 それから3年、いまのところ仲井真は反対の姿勢をくずしていない。外交評論家天木直人は「ぶれることなく選挙公約である『辺野古県外移転』を一貫して政府に言い続ける仲井真知事を、褒めて、褒めて、褒めまくる。そのことによって仲井真知事が二度と条件付き容認に戻れなくさせる」(2011年1月22日付メルマガ)と記しているがそれしかないのだ。仲井真の言動からは再び豹変するのではないかと感じることもあるが、いまこそしっかり支えなければならない。仲井真知事は今年4月28日の「主権回復の日」に欠席を表明したものの副知事を代理出席させるという。欠席と表明できないのはなぜなのか。このあたりにも仲井真知事の不可解さが見え隠れする。

 辺野古の美しい自然を壊してはいけないことはもちろんだが、なにしろ県民の大多数が移設に反対を表明しているという事実がある。
 今年1月27日、東京日比谷の野外音楽堂では、沖縄の41市町村の首長・議長、県会議員、沖縄選出国会議員らが出席して「NO OSPREY東京集会—オスプレイ配備撤回! 普天間基地の閉鎖・撤去! 県内移設断念!」が開催された。つまり沖縄選出の自民党を含めての国会議員、全市町村長が反対を表明したのだ。那覇市長の翁長雄志[おながたけし]をはじめ、圧倒的に保守系の人々が多いにもかかわらずである(4月下旬になって、自民党の西銘・島尻2議員が移設容認に転じた)。追って4月12日付『沖縄タイムス』で全県世論調査の結果が報道されているが、移設反対が74.7%、賛成が15.0%という結果である。
 さまざまなところで数字が示されているとおり、日本の国土面積の0.6%しかない沖縄県にはすでに在日米軍基地の74%が集中配備されている。これは沖縄の米軍による占領が「二五年から五〇年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与[リース]というフィクション」のもとで行われることを希望するという昭和天皇の「沖縄メッセージ」(1947年)にほぼ沿ったものである(豊下楢彦『安保条約の成立』岩波新書、1996年)。
 進藤栄一(当時筑波大学助教授、現同大名誉教授)によってアメリカ国立公文書館で昭和天皇の「沖縄メッセージ」(「天皇メッセージ」ともいう)が発掘されたのは1979年だが、何度も沖縄訪問を切望していた昭和天皇の念頭に「沖縄メッセージ」がどれほどあったものだろうか。
 「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」
 これは1987年、皇太子時代の今上天皇が、病臥の昭和天皇名代として沖縄海邦国体に出席した際に代読したものであるが、けっして充分とはいえない内容になっている。
 いずれにしろ、日本の憲法や法律よりも上位にある軍事施設を「金をやるから引き受けろ」と沖縄にいつまでも押しつけてはならない。沖縄から基地を撤去させることはあってもこれ以上つくってはいけないし、辺野古の新基地建設を許してはならない。2007年から北部の東村高江にヘリパッド建設工事が進められている。小さな高江集落を取り囲むように6つのヘリパッドがつくられる予定で、オスプレイが飛び交うなかで暮らせと言っているようなものだ。これも早急に中止させなければならない。
 4月3日付『琉球新報』によると、何度も沖縄に足を運んでいるカール・レビン米上院軍事委員長は海外の米軍兵力を縮小の必要性に触れて「とりわけ太平洋地域、特に沖縄」と述べ、辺野古移設は「実行不可能」と唱えていること、さらに米下院議員から転じたハワイ州のアバクロンビー知事は辺野古移設は行き詰まり、グアムへの海兵隊移転も費用がかさむので困難と指摘し、環境が整ったハワイが担うと誘致に乗り出している。こういった動きは本土の新聞で報じられることはない。

 ところで、少々気になる動きもある。
 3月22日、沖縄防衛局が県北部土木事務所に米軍普天間飛行場の移設先となっている辺野古沿岸の埋め立て承認申請書を提出したが、3月26日付『沖縄タイムス』によると、共同通信が実施した埋め立て承認申請書提出についての全国電話世論調査では、評価するが55.5%、評価しないが37.6%となっている。
 先の1月27日の日比谷野音の集会にはおよそ4,000人が参加し、集会のあとに銀座のパレードに移った彼らを沿道で待っていたのは、日の丸の旗を持ち「非国民」「売国奴」と声をあげ沖縄の人々を排斥しようとする一団だった。この件に関し伊波洋一は、4月2日のIWJ・岩上安身によるインタビューのなかで次のように語っている。
 「沖縄の首長さんたちの多くは保守系の方々で、まさか自分たちがそのようなものに遭遇するとは思っていなかったはずで、『あぁ、自分たちは違うんだなぁ』ととても大きいショックを受けているんです」。さらに「安倍政権、また安倍政権に近い維新の会などの新保守的な旧憲法回帰、戦前回帰を掲げる人々が、沖縄からみるとまさに日本的価値観にみえる。そこにヤマト=日本の本質的なものが表れているように思える。日本と沖縄の間には大戦直後にできた溝があるが、今後その溝が大きくなりそうな気配がする」と続けた。
 ほぼ沖縄県全体が反対という意思を示しているにもかかわらず、日本国民の半数以上は賛成という構図が明らかにある。やはり多くの人々の心には「沖縄の人たちは国の政策に従え」「嫌なものは沖縄に押しつけておけばいい」といったものがあるのだろうか。
 沖縄生まれの詩人山之口貘の随筆には門先に「朝鮮人と琉球人はお断り」という貼り紙を掲げた工場が登場するし、関東大震災(1923年)では流言による朝鮮人虐殺もあった。そしていま第二次安倍政権となって以降、沖縄排斥の動きに加え、東京新大久保、大阪鶴橋のコリアンタウンでは在日朝鮮人・韓国人排斥デモがある。これはまさに伊波洋一の言う「戦前回帰」の姿であって、これがこれから向かう日本だとしたら悲嘆に暮れるしかない。
 岩上安身は3月から4月上旬にかけて、先の伊波洋一のほかに元沖縄県知事大田昌秀、琉球大学教授我部政明、沖縄国際大学大学院教授前泊博盛(元琉球新報論説委員長)にも長時間のインタビューを行っている。どなたも真摯に笑顔でインタビューに応じてくれてはいるものの、その言葉の端々からは「あんたたちは俺たちのことをどう思っているんだ。同じ日本ではないのか?」と突きつけられているものを感じる。いくらそれを否定してみたところで、日本政府の政策は沖縄を明らかに植民地として扱っており、夏の参院選に向けて日本世論調査会が行った全国面接世論調査では自民党支持50.6%、しかも衆参ねじれ解消を望む人々が68%(『東京新聞』4月7日付)という現実がある。これは見過ごすことのできない兆候であり、夏の参院選で政権与党が過半数を占めることはなんとしてでも阻止しなければならない。
 多数決という民主主義では、日本の人口のわずか1%という沖縄の意思はなかなか反映されにくいのは確かだが、このままではますます沖縄を追いつめ、切り離していくことにならないだろうか。昨年のオスプレイ強行配備に続いて4月18日、PAC3が航空自衛隊那覇基地と知念分屯基地に配備された。民主党政権時から計画されていたことなのだが、今回の北朝鮮ミサイル問題をうけて安倍政権は有無を言わせずさっさと沖縄に運び込んでしまったのである。

 先の沖縄の旅の途上、ある島に渡った。偶然のことからとある家庭でふた晩お世話になった。65歳になるお父さんが、泡盛の入った湯飲みを前に三線[さんしん]を弾いてくれた。うたう枯れた声が夜の闇へ吸い込まれていく。1曲終えるごとに歌の説明をしてくれるが、お父さんの言葉はぼくにはほとんど分からず申し訳なかった。那覇から帰省中の30代半ばの長男からは地域左派政党、沖縄社会大衆党(現委員長=糸数慶子参議院議員)のことを聞いた。さらに、沖縄の人たちの心の底には「沖縄独立」がいつでもあって、事件が起きるごとに表面に出てくるが、昔からずーっとあると話していた。自治体職員だというが「ちょっと話しすぎた。自分のことは内緒にな」と笑っていた。
 現在日本政府は「思いやり予算」と称して、協定上も支払い義務のないはずの米軍の基地駐留経費の多くを負担しているが、これを拒否できるなら、アメリカ政府は膨大な軍事費の確保ができず日本じゅうの基地を引き上げることになるはずである。まずはこれを実現すべきなのだが、いつまでたってもそういう政治家は現れず、沖縄の人々は「独立」を思い描くことになる。
 大田昌秀も我部政明も沖縄独立の話が人々の間に蔓延していることを認めながらも、我部は「まだまだ現実味がない。まず独立の目的を明確にさせること」と安易な独立論には釘を刺す。東京外語大学大学院教授伊勢﨑賢二はイラクが駐留米軍を撤退させた例をひきながら、沖縄独立を掲げる地域政党を立ち上げることから始め、「民族自決」を旗印に沖縄のすべての議会を掌握したのちワシントンに政党事務所を置き、世界に訴えかけながらアメリカ政府を相手に「日米地位協定」の改定交渉を行うことで米軍撤退を実現できるだろうと語る(『通販生活』2013年春号)。
 かつて日本の統治下にあったパラオは人口約2万人だが、いまでは立派な独立国である。独立はけっして現実味のない話ではない。もし沖縄の人々の大きなうねりとなっていくようであれば積極的に応援する。
 終わりに、「辺野古に関して、沖縄の人たちは絶対に諦めることはない」と我部政明が語った力強い言葉に望みを託したい。その一方、安倍首相には沖縄の人々に正面から向き合おうという姿勢がまったくみられないことが気になるが、後世に「第二の琉球処分」として記録されるような、軍事力を背景とした行動はくれぐれも慎んでもらいたい。         

                                        (2013/04)

[参考] IWJ 日米地位協定スペシャル
http://iwj.co.jp/wj/open/jpus-sofa
(半年間は非会員にも無料公開中)

<2013.4.26>

04普天間b.jpg普天間基地全景(1981/05)

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工藤 茂(くどう・しげる)

1952年秋田県生まれ。
フリーランス編集者。
15歳より50歳ごろまで、山登りに親しむ。ときおりインターネットサイト「三好まき子の山の文庫」に執筆しているが、このところサボり気味。

工藤茂さんの
<ある日の「山日記」から>が読めます。LinkIcon

01潟原.JPG宜野座村・潟原の浜(1981/05) 写真提供/工藤茂・以下同

02平安座島01b.jpg平安座島・石油備蓄基地(1981/05)

03平安座島02.JPG平安座島にて(1981/05)

04普天間b.jpg普天間基地全景(1981/05)

05嘉手納b.jpg嘉手納基地(1981/05)

06ある島.JPGある島にて(1981/05)

07山之口貘.JPG山之口貘『沖縄随筆集』(平凡社ライブラリー、2004年)