いま、思うこと10 of 島燈社(TOTOSHA)

工藤/9条.JPG

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜

第10回/工藤茂
ぼくの日本国憲法メモ ②

 先の参院選は大方の予想のとおり自民党の大勝利に終わった。「いざ、憲法改正か?」というと、話はそれほど簡単ではない。単独過半数を確保できたわけでもなく、公明党や政策が近い政党へ気をつかいつつの動きとなる。
 そんなところへ麻生副総理の妄言が世界中を騒然とさせてしまい、改憲は当分先延ばしかと思いきや、安倍首相は内閣法制局長官に自分の意を汲む小松一郎前駐仏大使を据えて、改憲せずに憲法解釈を変えてしまおう(解釈改憲)という作戦に出たようだ。この手の打ち方に「敵ながらあっぱれ」と感心していてはいけない。われわれ国民はジーッと今後の動きを監視する必要がある。
 それにしても、麻生副総理の辻褄の合わない釈明の様子を見ていて、あまりのレベルの低さに情けないわ、悲しいわである。ひょっとすると、われわれ日本人はこういう人間が好きなのかもしれないとも思えてきた。

 ところで、憲法9条について調べてみようと思う。
 連載8回目の「ぼくの日本国憲法メモ①」にあげたベアテ・シロタ・ゴードン『1945年のクリスマス──日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝』(平岡磨紀子訳、柏書房、1995年)を読み始めたときに不思議に思ったことがあった。
 GHQの憲法草案作成の項は1946年2月4日から始まる。ベアテら民政局行政部の25人が局長のホイットニー准将から憲法草案作成の指示を受けるシーンである。25人を前にホイットニーが読み上げたマッカーサー・ノートの三原則の2項目目に、すでに「戦争放棄」は据えられているのである。

 2、国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに事故の
  安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を
  動かしつつある崇高な理想に委ねる。
   日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられること
  もない。
 (訳文は、高柳賢三、大友一郎、田中英夫編著『日本国憲法制定の過程Ⅰ』(有斐閣、1997年)に
 よる。)

 つまり「戦争放棄」の条項は、憲法草案作成過程で出てきたものではなく、それ以前に上層部で決まっていたことが分かる。
 1945年8月30日、マッカーサーはフィリピンのマニラから愛機バリタン号で沖縄経由で厚木基地に降り立つ。その機中で、ホイットニー准将やフェラーズ准将ら幕僚たちと日本改造計画の構想を練っていたことを、のちにベアテは聞いている。しかし、そこで出ているのは婦人参政権、政治犯の釈放、秘密警察の廃止、労働組合の奨励などで、「戦争放棄」は記されていない。

 前回同様、古関彰一『新憲法の誕生』(中公文庫、1995年)をおもに参考としてすすめる。
 GHQ内で憲法問題が懸案となってきたのは1946年1月中旬ごろのこと。そして2月1日、松本蒸治国務大臣を委員長とする日本政府の憲法問題調査委員会が検討していた改正試案のひとつを、『毎日新聞』がスクープしたことが発端となって、GHQは独自案の起草へと一気に動き始める。
 2月3日、マッカーサーはホイットニーに対し、GHQ内で憲法を起草する際の三原則(マッカーサー三原則、またはマッカーサー・ノート)を示しており、遅くともこの日には「戦争放棄」の方針は決定していたことになる。

 「戦争放棄」の概念が登場するのは、第一次世界大戦後の不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約、1928年)とされる。また初めて「戦争放棄」を定めた憲法はフィリピンの「1935年憲法」で、フィリピン国民軍の軍事顧問だったマッカーサーがそこにどのように関わったのか定かではない。古関は「マッカーサーがGHQ草案をつくるに際し、フィリピンの一九三五年憲法が頭にあったことは十分に考えられる」としている。
 ついでだが、1992年にフィリピン国内からの米軍基地撤退を実現させたのは、「1987年憲法」によるものである。

 GHQ民政局行政部ではケーディス大佐を中心に運営委員会をつくり、その下に立法、司法、地方行政、財政、行政権、人権、天皇・授権規定の各委員会と前文担当を置き、分担して起草にあたった。
 そこには「戦争放棄」を担当する委員会はなく、それは当初から他の条項から切り離された存在だったことが分かる。
 法学博士で弁護士のハッシー海軍中佐によって起草された前文のなかに「戦争放棄」が置かれたが、マッカーサーの指示で本文に移され、第1条とされた。のち日本国民の心情に敬意を表して「天皇」の項を第1章としたため、「第2章 戦争の放棄」とされた。
 このGHQ案が日本側に突きつけられたのが1946年2月13日である。19日の閣議で初めて閣僚に公開されたが、それまでその内容を知っていたのは幣原首相、松本国務大臣など4人にすぎない。松本の報告に対して、幣原首相、三土内相、岩田法相の3人が「受諾できぬ」としてその日の閣議では結論が出ず、21日、幣原はGHQ案起草の真意を聞くためにマッカーサーを訪ねる。
 古関前掲書の紹介する『芦田日記』によると、そこで幣原は戦争を放棄することの不安を訴えるが、「followers(あとに続く国々)が無くても日本は失う処はない」とマッカーサーは励ましている。これを受けて古関は「大筋において九条の発案者がマッカーサーであり、幣原でないことは疑う余地がないように思える」としている。
 日本の「戦争放棄」「非武装化」というマッカーサーの考えの根底には、(この時点で日本ではない)沖縄に空軍基地を置いて要塞化することで日本を守ることが可能ということがあったもので、けっして平和主義者だったわけではないと古関は断じている。こうしてみると、連載6回「沖縄を思う」で触れた昭和天皇の「沖縄メッセージ」は、まさにマッカーサーの軍事戦略に呼応するものだったということができる。(7月30日の朝刊に米軍横田基地へのオスプレイ配備計画が報じられたが、いま、日本全体が米軍基地化されようとしているのだろうか。)

 古関彰一は『憲法九条はなぜ制定されたか』(岩波ブックレット、2006年)において、憲法9条の発案者について次のような説を紹介している。
 1.幣原首相からの提言説……「羽室メモ」にある聞き書き、憲法学者深瀬忠一など。
 2.幣原首相とマッカーサーの合作説……憲法学者芦部信喜。
 3,吉田茂外相説(外交官白鳥敏夫の提言)……政治学者五百旗真[いおきべ まこと]。
 ほかに、『マッカーサー回想記 下』(朝日新聞社、1964年)での、1月24日の幣原首相とのふたりきりの会談の際に幣原から提案されたという記述のほか、吉田茂『回想十年 2』(新潮社、1957年)での、「マッカーサー元帥が先きに言い出したことのように思う。(中略)もちろん、そういう話が出て、二人が意気投合したということは、あったろうと思う」との吉田の印象が紹介されている。
 しかしながらマッカーサーは、日本側に勅語を作成させるなど、新憲法は昭和天皇と日本政府によって積極的につくられた体裁をつくっており、GHQのアメリカ政府への報告書でもそのように強調していることなどから、マッカーサーとしては自身を9条の発案者として書き残すことはできなかったと古関は推察しているようだ。

 以上のように、9条の発案者について古関彰一は一貫してマッカーサー説をとっているが、一方においては、晩年の幣原喜重郎から聴取した憲法調査会資料(1951年聴取、1964年記)というものが残されている。そこには幣原のほうから切り出したという自身が証言も収められている。これは古関が紹介している「羽室メモ」(1962年)とほぼ同一内容のものだが、古関はまったく取り上げていない。憲法史を専門に研究してきた法学者である古関がこの憲法調査会資料を知らないとは考えにくく、あえて触れないところをみると、信頼に足るものとは受け止めていないのであろうか。
 ベアテは、晩年のインタビューのなかで、当時日本側から提出されたさまざまなものから推測しても、「戦争放棄」などのアイディアが日本側から出たとは考えられないと答えている。
 一般的には幣原説をとる人が多いようだが、目を通せる資料も本にも限界のあるぼくに手に負えるテーマではないことは承知している。ただ、いまのところぼくの印象としてはマッカーサーが発案者だろうと思っている。

 1946年5月16日、第90回帝国議会が招集され、GHQ案を叩き台にした新たな政府案は、7月23日からの修正案作成のための小委員会へと送られた。ここでいわゆる「芦田修正」が施される(のちの委員会案。変更箇所に下線を施す)。
(新政府案)①国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の
 決の手段としては、永久にこれを放棄する。
  ②陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。
(委員会案)①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、
 武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  ②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを
 認めない。

 「前項の目的を達するため」を挿入した意図について、委員長だった芦田均はのちになって、自衛戦争もしくは自衛のための戦力を否認するものではないとして、この考え方は当初より一貫していたと述べているが、当初の考えはそうではなかったことが明らかになっている。
 委員会案がワシントンの極東委員会へ送られると、この変更について不信感が表明される。
 複数の国から文民条項の欠落が指摘されたほか、中国(中華民国政府)からは、2項が、1項で特定された目的以外の目的で陸海空軍の保持を実質的に許すという解釈を認めていることで、自衛という口実で軍隊を持つ可能性があることが指摘された。オーストラリアの対日不信も大きく、将来日本は9条を改正して軍隊を保持することになると信じており、その際は現役武官が陸・海軍大臣に就くことがないように「文民条項」が有効だと指摘した。
 その結果、66条2項に「内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、文民でなければならない」と入れられ、9条はそのまま認められた。
 ここで中国が芦田修正の危うさを即座に見抜いたことに驚くとともに、現在の日本の政治情勢は、まさに67年前に極東委員会で危惧された方向へとすすみつつあるように思える。

 正直なところ、この稿を書き始めたときは、厄介になりそうな憲法9条の解釈については触れずに済まそうと思った。しかし、ここまできたからにはせめて日本政府の解釈くらいはのぞいてみようとも考え直したが、これもなかなか厄介だ。厳密さをお望みの方は、衆議院のHPに2012年5月、憲法審査事務局がまとめたものがあるので、ご覧いただきたい。
 やはり問題となるのは自衛隊の存在である。
 樋口陽一・井上ひさし『日本国憲法を読み直す』(講談社文庫、1997年)によれば、現行憲法には前文をふくめて「軍隊」のことは一字一句出てこないという。これは何を意味するかといえば、単純に「軍隊」をもってはいけないということだという。憲法は自衛力、防衛力までは禁じていない、また自衛隊は「自衛力」であって「戦力」ではないという政府解釈も、解釈が正しいかどうかではなく、われわれが選挙でそういう政府を支持してきた結果にすぎないという。
 アメリカが要求する再軍備を、憲法を盾に拒否できた政治家がいたかどうか分からないが、国民がそういう政治家を選んでいたら自衛隊は存在しなかったかもしれず、こんな厄介な解釈を迫られる状況にはおちいっていなかったはずだ。
 しかしながら、相変わらず多くの国民は戦後政治のほとんどを担ってきた自民党を支持し、参院選後は衆参のねじれが解消されたと喜んでいる。その安倍自民党政権は「集団的自衛権」行使に向けて憲法解釈を変更しようとさえしている。
 安倍首相の主張する「集団的自衛権」は、一般にアメリカの軍事戦略に沿ったものといわれるが、それとは異なる国連の平和維持活動下での「集団的自衛権」容認を唱えるのが生活の党の小沢一郎である。小沢は、国連の平和維持活動下であれば実力行使を含むあらゆる手段を通じてという主張に沿って、憲法改正ではなく「加憲」を目指すとしている。
 じつはこの問題があるから憲法解釈には踏み込みたくなかった。自衛隊が米軍とともに海外での戦闘に加わるべきか、それとも国連平和維持軍として海外での戦闘に加わるべきか以前に、自衛隊を海外に出してよかったのかという問題に、ぼく自身確信をもって答えられないでいるのだ。
 もたもたしている間に現実ははるか先へと進んでいて、東アフリカジブチにはすでに自衛隊の基地が建設されている。
 戦後六十数年かけて大きく育ててしまった自衛隊をどのように扱うべきか、憲法とからめつつ考えなければならない課題である。平和維持のために、必ずしも大きな軍備が必要とは思えないのだが。
 最近、そのようなテーマの本がいくつか刊行されているので、個人的に気になったものをあげておきたい。
 ・天木直人『さらば日米同盟』(講談社、2010年)
 ・ 松竹伸幸『憲法九条の軍事戦略』(平凡社新書、2013年)
 ・ 柳澤協二・半田滋・屋良朝博『改憲と国防』(旬報社、2013年)
                                      (2013/08)


<2013.8.24>

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工藤 茂(くどう・しげる)

1952年秋田県生まれ。
フリーランス編集者。
15歳より50歳ごろまで、山登りに親しむ。ときおりインターネットサイト「三好まき子の山の文庫」に執筆しているが、このところサボり気味。

工藤茂さんの
<ある日の「山日記」から>が読めます。LinkIcon

工藤/9条用hp.jpg古関彰一『憲法九条はなぜ制定されたか』(岩波ブックレットNo.674、2006年)

13.9.1反原発日比谷集会.pdf

■9.1さようなら原発講演会&
9.14さようなら原発大集会
http://sayonara-nukes.org/2013/06/koudouyotei2013_9/