いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜 工藤茂
第152回:天皇と沖縄
6月4日、天皇・皇后と長女愛子さんは、戦後80年にあたって1泊2日の日程で沖縄を訪ねた。宮内庁によれば、夫妻の強い意向で、沖縄慰霊の日である6月23日の前に調整したという。
4日は本島南部、糸満市の沖縄県営平和祈念公園の国立沖縄戦没者墓苑、平和の礎[いしじ]、県平和祈念資料館、5日は那覇市の対馬丸記念館、慰霊碑「小桜の塔」などを訪問・拝礼したほか、遺族たちや沖縄戦経験者との懇談の場も設けられた。最後に、焼失した首里城復元工事を視察して日程を終えた。
1975年7月、当時の皇太子夫妻(現上皇夫妻)の沖縄訪問の際には、ひめゆりの慰霊碑前で過激派が火炎瓶を投げつける事件が起きたが、今回はごく小規模のグループによる抗議運動があったようだ。
最近、原武史『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』(岩波新書、2024年)を読んだ。こんな本が出ていることはまったく知らなかった。
戦後2代目宮内府長官、初代宮内庁長官を務めた田島道治[みちじ]による『昭和天皇拝謁記』全7巻(岩波書店、2021〜23年)を読み込み、原氏なりの解釈をまとめたもので、氏によれば、とくに「拝謁記」(1〜5巻)は最重要資料で、天皇と田島のやりとりがテープレコーダーに録音したかのように詳細に記録されているという。「戦後間もない時期の『象徴天皇』の実像がどういうものだったのか、より一層クリアになったのではないかと自負」しているということである。
さて、その『象徴天皇の実像』には、「沖縄に対する認識」という小見出しで4ページを割いている。奄美の返還が新聞で報じられた1953年8月10日の、田島と昭和天皇のやりとりである。表記は旧仮名のままである。
「首相等政府で希望するならば陛下から大統領に電報でも御出しになつてもよろしいといふ事を仰せになりましては如何かと存じますが。そうだ、政府でも願ふなら礼はいゝネとの仰せ。或はその節に小笠原等も可成[なるべく]早く……と申上げし処、沖縄もだよ……然し頼む以上はこちらでもすべき事はするといはなければ、頼むだけといふ事は出来ないとの仰せ(すべき事との仰せは内灘などの事を仰せのおつもりらし)。」
政府が希望するなら、天皇からアメリカ大統領へ奄美の返還を感謝する電報を送ってはどうかと田島がいったところ、天皇は「礼はいゝネ」と同意している。続けて田島が、小笠原もなるべく早く返還を望みたいと電報に記してはどうかと尋ねたところ、天皇は「沖縄もだよ」応じ、さらに一方的に頼むだけではなくこちらも「すべき事はする」といわなければならないと答えている。
天皇のいう「すべき事」を、田島は「内灘」のことのようだと但し書きをしている。内灘とは石川県内灘村(現内灘町)のこと。砲弾試射場用地の提供を求める米軍に対し、吉田内閣は期限付きで内灘を接収・提供、1953年3月から試射が始まり、「内灘闘争」と呼ぶ反対闘争が起きていた。同様に、浅間山の米軍演習地でも「浅間山演習地反対闘争」があって、これらの動きを天皇は危惧していた。
天皇の答えの「沖縄もだよ」とは、沖縄返還を求めるだけではなく、返還後の沖縄を基地として米軍に提供することまでを含むという。
小欄6回目「沖縄を思う」(2013年4月)で取り上げた昭和天皇の「沖縄メッセージ」に再び触れることにする。
沖縄の米軍統治が始まった当初の1947年9月、天皇は側近を通してGHQへメッセージを伝えている。口頭ゆえに日本側には記録がなく、アメリカ側に公電が保管されていた。1979年、当時筑波大学助教授だった進藤栄一氏はアメリカ国立公文書館でその公電を発掘する。次のような内容である。
「アメリカによる沖縄の軍事占領は、日本に主権を残しつつ、25年から50年、あるいはそれ以上の長期貸与の形をとることを望む」
これは沖縄の切り捨てなのか、あるいは差し出したものか。しかもこの行動は憲法4条「(天皇は)国政に関する権能を有しない」にも抵触してくる。ぼくは豊下楢彦『安保条約の成立』(岩波新書、1996年)で知って驚いたが、すでにさまざまな本で取り上げられ、沖縄県公文書館ホームページ「米国収集資料」コーナーには「天皇メッセージ」として、公電の写真が掲載されている。
前掲『象徴天皇の実像』によれば、天皇は沖縄をアメリカに提供すべき土地と認識していたことが「拝謁記」により明らかにされ、「沖縄メッセージ」の内容が裏付けられたとしている。米軍基地がどっかと乗っかったいまの沖縄の姿は、昭和天皇が望んだものということになる。
さらに加えて、日本の共産化を極度に恐れていた天皇は新憲法を旧憲法へと戻し、日本の再軍備さえも希望していたことも明らかにされている。
「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを」
1987年、昭和天皇は体調を崩し、予定していた沖縄訪問が中止になった際に詠んだ歌である。歌にある「つとめ」とは何を指したものか。沖縄メッセージが念頭にあったのかどうか曖昧なままに残されたが、この頃は、すでに失念していたとしても不思議ではない。訪問の願いは叶えられることなく89年1月、87歳にて没した。
ついでに昭和天皇に関してもう少し触れておきたい。太平洋戦争末期の1944年7月、サイパン陥落ののち高松宮は天皇に降伏を進言した。サイパンが陥落すれば直接本土空襲が可能になり、もはや勝ち目はない。さらに年が明けて2月の近衛上奏文、5月のドイツ降伏、さらなる戦勝を期する天皇はどのタイミングでも決断を避け、沖縄戦も本土空襲も、広島・長崎の原爆被害も加わることになる。皇太后(大正天皇妃=貞明皇后)の意向には逆らえなかったという話もあるが、いずれにせよ「聖断」が遅すぎた。
今年の2月、アメリカのトランプ大統領はウクライナのゼレンスキー大統領に対し、「あなたは何百万人もの命を使って賭けをしている」と早期の停戦を促したが、ゼレンスキー氏は、このときの昭和天皇と同じところに立っているように感じた。トランプ氏は、ときどき真っ当なことをいうので驚かされる。
「DIAMOND ONLINE」(2025年2月4日付)に、かなり気になる記事があった。保阪正康氏の執筆である。2013〜16年に計6回、半藤一利氏とともに当時の天皇夫妻(現上皇夫妻、以下同)から御所に招かれた際のことを記している。
たまたまその日は、歴史学者の磯田道史[みちふみ]氏も同席していた。満州事変の話をしていたときのこと。こちら側の解説を聞きながら、天皇は「私の読んだ本に書いてあることとは違いますね」といった。3人は驚き、最年長の半藤氏がすかさず、「陛下はどういう本をお読みになったのでしょう」と尋ねた。10分ほど席を外して天皇が書庫から持ってきた本は、満州事変の2年後の1933(昭和8)年出版の、3人とも知らない著者の本だったという。
その本は関東軍の謀略だったことを隠していた頃のもので、いま出ている本とは事変に対する理解がまったく異なること、いまは真相を含め、詳細な事実が明らかになっていることなどを天皇へ説明したところ、天皇はあっさり「そうでしょうね」と応じ、拍子抜けしたとのことだ。
ところで、現天皇ほか皇室の方々は、自由にネットなどでも本を購入できるのだろうか。昭和天皇が沖縄に遺した「負の遺産」をどのように受け止め、訪ねているのであろうか。ふと、そんなことが気になった。 (2025/06)
<2025.6.18>
沖縄県営平和祈念公園、平和の礎にて(宮内庁HP、Youtubeチャンネルより)
沖縄県営平和祈念公園、国立沖縄戦没者墓苑にて(宮内庁HP、Youtubeチャンネルより)